第四章 金正日総書記は如何して楊斌氏を選んだか?
北朝鮮が楊斌氏を招いた
2001年1月15日から20日の間に、北朝鮮の労働党総書記金正日は中共中央総書記、国家主席の江沢民の招きにより中国を非正式に訪問した。
訪問期間金正日総書記は上海で4日の参観をした、朱鎔基総理は上海で金正日総書記を接待した。彼の伴いで上海の都会企画展示館、上海の通用汽車有限公司と上海の華虹NEC 電子有限公司を参観した。上海の市委員会書記の黄菊さんは金正日総書記に上海の改革解放の状況と発展進捗を紹介した。お客さんと一緒に浦東新区、上海貝尓公司、上海証券相場、上海宝山鋼鉄(集団)公司、張江テクノロジー園区及び孫橋現代農業開発区等項目を参観した。
金正日総書記は上海の参観訪問の中で非常に深刻な印象を残ったに違いないです。彼は北京で江沢民総書記と会見する時に「中国特に上海は改革解放以来、天地を覆すような巨大な変化から中国共産党が実行している改革解放の政策は正しい事を十分に証明した。」とのこ事を強調した。
金正日総書記は上海の孫橋現代農業開発区を見学する時にガラス温室と中の各種類の野菜と色々な草花を見たので彼の興味を起こした。
農業問題は何時も北朝鮮の経済発展の支障と著しい矛盾です。金日成将軍が居た時にいつか北朝鮮も現代農業化を実現出来るのがを夢にしていた。ところが彼が最後までこれを見ることが出来なかった。1994年から1997年に北朝鮮は三年の連続自然災害に遭ったので元々落ちっている農業は殆ど麻痺している状態です。金正日も北朝鮮の農業の為に新しい進路を差探したがっている。だから、彼が孫橋現代農業開発区を見学する時非常に細かく質問した。彼からガラス温室設備は世界中生産している国はどれですかっと、1ヘクタールの設備がどの位掛かるかっと、1ヘクタールのガラス温室は年間生産高はどの位ですかっと、何の野菜、草花品種があるかっと……質問があった。特に興味を引き起こされたのはこれらのトマトと彩唐辛子です。其れは種で植えたではなく土壌で生長している事でもなく、植物の胞子から分裂して栽培したのです。栽培瓶で根、茎、芽と小さい葉が生えてきた種苗になったら栄養泥を液を入っているブラスチックの小鉢に移し、1株のトマトは下から上へ生えていく、生長期は12月に達せる。トマトも下から上へ実っていくが一年中収穫できる。このテクノロジー、工場化の農業生産モードは金正日総書記の視野を広げさせて忘れられない強く印象を残させた。
金正日総書記は帰国の途上に中国の丹東市を経由する時に、中共遼寧省委員会、中共丹東市委員会、市政府及び軍隊のて責任者は丹東駅で出迎えを行った。其れは義理の儀式です。
金正日総書記は自ら中共遼寧省副書記張成相と市委員会の書記蔡哲夫と市長の姜作勇を彼の車両までに誘ったが30文程親切で友好の会話をしました。
金正日総書記は自分の専用列車の車両で遼寧省、丹東市の役員達に沢山質問をした、例えば:丹東市の経済、市政建設、高速道路、農業などの問題です。最も詳しく訪ねたのはやはり農業問題でした。
筆者は丹東市市長の姜作勇さんを取材した。
中共丹東市委員会書記蔡哲夫さんが金正日総書記と会談する当時の事を追憶して話した。「金正日総書記は丹東には農業大棚が有りますかとか、普通の温室か或はガラス温室かとか、普通の大棚の建設は1ムの土地の大きさでどの位掛かりますかとか私達に聞いた。私が返事して言った:ちょっと高級の暖棚は1ムで50000元人民元です。冷棚、要するに地上から比較的に低い大棚は只何千元です。」
「1ムの大棚はの産量はどの位?蔬菜の品種が何にか有りますかっと……金正日総書記は又聞いた」
金正日総書記は丹東市の経済、市政建設の事も聞いたが丹東の丹沈高速道路を只今建設のを聞いたらご機嫌に質問した「何時出来ますか。」
蔡哲夫さんが返事した。「2002年9月に完成する予定です」
「丹沈高速道路は何キロメートルですか」金正日総書記が聞いたが。
「130キロメートルです」蔡哲夫さんが返事した。
金正日総書記が又聞いた「車の時速限定は」
そばに行った中共遼寧省委員会副書記の張成相さんが答えた「100キロメートルちょっとです」
そうしたら金正日総書記が笑って又質問した「高速道路なのに遅くないですか」
張成相さんが説明して言った「山地なので時速は120キロメートルに設定しているけれども160まで走れます」
金正日総書記が頷いて言った「好し、好し、機会が有れば丹東、遼寧へ行って貴方達の丹沈高速道路を見てみたいね。私達は平壤から新義州までの高速道路も作るから」
蔡哲夫さんは其の日に丹東駅で金正日総書記に接見してもらったのが非常に印象が残ったっといった。彼は追憶して話した「列車の中に金正日総書記は非常にご機嫌だった、彼が丹東の農業について色々質問した。1ムーの作物の生産高はどの位ですか、水稲の最高産量は?とうもろこしのムー産は?肥料の供給状況は?等幅広く質問したが最も多かったのはやはり農業問題でした。とっても実際で具体的に質問した。最後は北朝鮮の同志が総書記に時間だと提示したから彼がやむを得ない私達を送った。」
「その日は外の温度は零下20度だが車両の中には春みたいに暖かかった、金正日総書記はシャツ一枚しか着ていないのに如何しても車両の出口まで私達を送って零下20度の冷たい風の中で私達と握手した。又は車両の出口に立って列車外の送別に来た中国友人に手を振ってお礼と挨拶を送った。金正日総書記の優しさ、指導者の風采は私達の遼寧と丹東の党政軍幹部に深刻な印象が残った。」
金正日総書記は帰国後、直ちに北朝鮮駐中国大使館に中国のガラス温室に関する状況を調べるように指示した。直ぐに関係の報告は金正日総書記のオフィスに届いた。中に一通の報告に設備と技術の最大なサプライヤがオランダ籍で中国人の楊斌氏っと言う方で、その方が只今人力と物質、財力などを集め沈陽に「オランダ村」と言う現代農業生産基地を作っていると書かれていた。
金正日総書記は関係部門と北朝鮮駐中国領事館、駐沈陽領事館を楊斌氏とタックする様に指示した。
楊斌氏がチームを率いて平壤で投資した農業項目を見学するーー温室建設工事。後ろに一列白い建物はガラス温室です。左から1番目は朝鮮側首席代表の金東奎氏、二番目は馬寧氏、三番目は楊斌氏(撮影 関山)
北朝鮮駐外のある貿易機関の総経理はオランダ村へ楊斌氏を訪ねた。彼は建て上がったばっかりの4ヘクタールのガラス温室を見学し、楊氏と詳しく会談を行った。数日後この総経理は北朝鮮駐沈陽領事館首席領事を伴って又楊斌氏を訪ねた。彼らは北朝鮮貿易省、経済協力推進委員会、農業省と園芸総社を代表し楊斌氏を平壤へ訪問するのを招いた。
③
2001年4月、楊斌氏が初めて北朝鮮を訪問。平壤を着く時に盛大、情熱な接待を受けた。泊まっていたホテルは北朝鮮政府が外国から来た重要なお客さんを接待する牡丹峰ホテルでした。
楊斌氏を参観をしながら何回か北朝鮮の重役員と会談を行った後、オランダ欧亜集団の名義で北朝鮮平壤園芸総社と一つの提携契約を達成した。共同に「平壤――欧亜合営会社」と投資して成立した。平壤園芸総社は北朝鮮内閣が楊斌氏の農業項目を協力する為に成立した会社です。内部では平壤園芸総局と称して、外部では企業の形で平壤園芸総社と称している、総局長兼社長は金東奎氏です。金日成将軍が居た時にオランダ現代農業に気に入っていた。北朝鮮の農業も現代化の方法へ発展して行って条件が揃えば師範典型を作りたいと希望していた。金日成将軍の願いを実現する為に金正日総書記は自ら:平壤東北方に金日成同志の墓と金正淑烈士の墓の間の連接線に一つ公園用地で面積は50ヘクタールを儲けって楊斌氏の農業項目用に使うと指示した。この北朝鮮現代農業師範区は面積は平壤
市竜城区化成洞にある。
2002年5月、楊斌氏及び代表団メンバーは平壤に投資した現代農業基地を参観した。図は建設担当をしている人民軍少将旅長が工事の進捗状況を紹介している。(撮影 関山)
2001年6月30日、両方共同で「平壤――欧亜合営会社」の規定、組織枠を完成した。株は全部2200万ドルで楊斌氏は資金、設備と技術を株にして70%の割合を占めている;朝鮮側は土地、労働力を株にして30%の割合を占めることになった。
2001年7月20日、両側が平壤にサインして有効にさせた。楊斌氏は北朝鮮現代農業に踏み込み始った。
2001年7月20日、楊斌達が沈陽に戻った。そして欧亜集団総裁李刚氏をリーダーにして
平壤農業項目チームを組ませた、MBAと管理経験を持っている葛宪民氏を「平壤—欧亚合营会社」の理事と社長に、王玉民を副社長に任じた。二人は具体的に平壤農業師範区項目の建設、工事と技術管理を担当している、それに欧亜メンバーは平壤に行く時の接待も担当している。平壤農業師範区の農業技術総工程師は谷建師教授とオランダ籍の専門家です。
2002年4月に平壤を訪問する時に初めて化成洞農業模範区を参観した。其処のガラス温室の骨組が既に完成していった、室内の管結構と灌漑システムを取り付けている最中だった。
一列一列太陽温室の中に各種の蔬菜が植えている。トマト、ピーマン、茄子、香瓜、キュウリ等、実っていってとっても綺麗で人を喜ばせた!会社の朝鮮農業工員が蔬菜を収穫して梱包してトラックへ載せている、市内へ送る用意していた。
これらの温室は何時出来たか?まさか昨年の冬に作ったんですか?これは750ムもある温室だよ、しかも冬場に蔬菜の種苗は何処から来たですか?余りにも疑問が多いので参観後に彼らの簡易なオフィスに戻ったとたん王玉民副社長に聞いた。
王玉民社長が説明してくれた「ここは北朝鮮の始めての農業模範区です。ご覧になったのは只一部の工事で全部50ヘクタールが有ります。ガラス温室は6ヘクタールで6万平方メートルです。太陽温室は76棟があり、一棟当たり1ムです、山東寿光温室をもとに改造したです。例えば太陽温室の後ろ壁は寿光のより厚いです、温室の入り口前に全部統一企画した小屋を建てられて、きちんと整っていて綺麗で保温効能があります」
「北朝鮮の友人はもっと早めに温室の建設を完成させて、平壤市民に冬でも新鮮な蔬菜を食べさせることが出来ないかと希望しているので、楊総裁は北朝鮮側が工事さえ担当して頂ければ問題ないだと承知した。2001年12月に北朝鮮側は軍隊、工人と地元の農民を動員した、ピーク時は五万人が同時に施工にしたが地面を平らにしたり日覆を作ったりした。工事現場が人の海になって赤旗が翻り、北朝鮮人民軍文芸工作団の俳優達が歌ったり踊ったりして、歌声が大地に響いた。この様な宣伝鼓動場面は我国では見えない光景です。まるで1958年に大躍進時の大きな場面でした。人を感動と感慨深深にさせた!」
北朝鮮人民軍文芸工作団の俳優達が工事現場で宣伝鼓動している場面、我国では見えない光景だ。(撮影 関山)
私も思わずに聞いた「北朝鮮の供給は非常に厳しいそうですが、工事現場の大勢な人の食事はどうしますか」
王玉民氏が笑って返事した。
「北朝鮮の供給は非常に厳しいです、彼らを解決するのが困難な事です。この何万人で荷二三月の大会戦では全部楊総裁が中国から米、豚肉、蔬菜、ジャガイモ、食用アプラからガソリン、重油等まで運んできて、全部私達が提供し解決したです。」
「2002年1月、67棟の太陽温室を完成した。各種蔬菜の種苗の栽培を確保する為に、オランダ村は事前段取を既に済ませた、例えばトマトは全部私達が選んだオランダ品種です。種苗は保温トラックで沈陽から平壤まで運送したものです、一回に10台以上のトラックで全部3回を運送した。そして、中国の農業エンジニアの指導により67棟の太陽温室の植えを全部済ませた。今現在は生産した蔬菜はキュウリ、ナス、唐辛子、カラーピーマン、外国トマト、甘瓜、レタス、春菊など十何個品種が有ります」
2002年3月から「欧亜――平壤合営会社」の温室には相次ぎ新鮮な蔬菜を収穫出来て次から次へと平壤の外国人を接待するホテルと市民に提供し始めた。
楊斌氏は又北朝鮮軍民へ沢山の福祉援助を提供した、それに北朝鮮側が欧亜公司と楊斌の名前の宣伝に力入れてあるので、平壤に広がってきた。
楊斌氏は平壤で北朝鮮の初めの現代農業模範基地を建ちあがった。間違いなく北朝鮮の党政役員に自分を特別に扱わせた。北朝鮮は1994年から大洪水を遭った後に三年連続で農業収穫が著しい減った。しかも水利施設も厳重な破壊に遭った。ある国家が北朝鮮に対して敵対的な経済制裁と閉鎖を取り入れているし、これは勿論更にその国を窮状に付け込ませた。国際社会の援助が極めて弱い、ある国はいろいろ条件を付帯するまでしている。
だが楊斌氏の欧亜集団と北朝鮮園芸総社の提携は名義上は合資公司で70%株を占めているが生産した新鮮な蔬菜は1ドルも貰えないです。
北朝鮮の現状をしている方は皆良く知っているが、北朝鮮は提供制で、低収入、低消費の国です。北朝鮮の公民は義務教育(小学校から高校まで)、医療、住宅待遇を無料で享有している。農業提携社の農民を除いて(彼らは集団性質である分配は農業提携社が担当している)、工人、軍人、幹部、政府役員、学者等は給料制待遇です、職業、ランクの違いで給料は違うけれども、殆ど低収入、低消費です。ところが彼らは教育、医療、住宅を無料享有している同時に提供制待遇も有ります。即ち無料で食料、食用アプラ、蔬菜と生活用品を提供する事です、お金が必要とする所が極めて少ないです。
北朝鮮一人の普通の工人は毎月の給料は只何十元朝帀です。幹部は月に只100一寸元の朝帀です。例え私が知っている幾つの外務省、貿易省の役員でも月に200位の朝元です。私は何回か幾つの部一級役員に聞いてみたがいったい月の給料は幾らですか?、彼らは答えなく笑っているだけで若しくは私の肩を叩いて言って「一寸だけです。間違いなく君より少ないです!」納得できないので気がすまなかった。ある宴会後に馴染の局一級北朝鮮役員に一人の副部級役員を指して聞いた「彼の給料は貴方よりどの位高いですか?」この局長は私と良く馴染んでいて私が平壤へ行く度に彼に「中華タバコ」を何箱を土産に遣っているので、多少人情が有るから彼は私に「私より只何十元かが多い!」と答えてくれた。
そしたら朝元は人民元、ドルの両替率は幾らですか?私は通訳の朴成浩さんに聞いた、この中国に留学で流暢な中国語を喋れる若者は教えてくれた「朝元は外貨と直接両替が出来ないです。北朝鮮も両替券が有ります、中国昔の為替券と同じです。朝元と両替券は再両替できる。1ドルは朝元にすれば215元に成ります」
言わば、北朝鮮の普通の幹部の月の収入は只50分ドル位で局長一級の役員の収入は只1ドル一寸だけです。ところが北朝鮮の工人、幹部、役員、学者の月毎の給料は生活補助品と食品の購入に使っているが、これ等の値段も非常に低いです。彼たちの給料は殆ど貯金して両替券に両替して為替商店へ輸入品を買う事になっている。
蔬菜は政府から無料で市民に提供しているならば、其れは供給制の一部なので、「平壤――欧亜合営会社」で生産した蔬菜は利益が有る訳が無いです、例え政府が一部の補給を出すとしても、平壤政府は為替がないので払えないです。だから取り敢えず帳簿につけて置くことに成ったわけです。
北朝鮮政府はお詫びを現すと楊斌氏が平壤で農業模範区項目の支出を補給する為に別の方法で補償する事になった。
新義州経済特区は如何に提出されたか?2001年11月から2002年1月まで、平壤現代農業模範区の建設「大会戦」の期間に、楊斌氏が沈陽と平壤の間に何回か通っていた。彼は平壤に着いたら何時も牡丹峰ホテルを利用していた。国竇の様な待遇を受けていた。北朝鮮側は出来るだけ食事の質を良くしていって魚と牛肉まで出ていた。ところが冬の季節になると白菜、ジャガイモ、大根のような物しか提供出来ないです。ある日、晩御飯が終った後に彼が貴賓庁から出て、丁度隣部屋から出た一人の北朝鮮の役員と出合った、楊氏は彼と挨拶しながら部屋のドアを開けた。中に未だ食事中の役員達が立ち上げってお礼正しく挨拶した。楊斌氏は彼らの食卓を一目に見た直ぐに北朝鮮の友人向って手を振って「ハロー」と挨拶して部屋から引き上げた。彼はとっても気重いだと感じた。北朝鮮役員の食卓にご飯の他に、只簡単なスープとおかずだけです。一番多かったのはキムチだった。これらの役員は皆外務省、農業省、園芸総社の重役幹部です。一番下の職務は外務省経済局副局長でした。
楊斌氏が二階に戻って、一人で居間のソファーに座って長く考え込んでいた。指に挟んでいるタバコは指が熱いと感じたまでに燃えていったので、慌てて消した。彼は二つ決定をした:
先ず「平壤――欧亜合営会社」に電話して葛憲民社長、王玉民副社長に沈陽、丹東から運んできた肉、玉子、蔬菜等を一部を分けて牡丹峰ホテルに皆の食事の改善用に送ると指示した。
そして彼は北朝鮮園芸総社の金東奎社長等を自分のお客室まで招いた。先ず平壤農業模範の「大会戦」の状況を話してから、彼が北朝鮮の友人に言った「貴方達の役員がこんなに厳しい生活をしているのをみて、とっても不安です。だから無償でお米を送りたいと思います」
左は北朝鮮平壤園芸総社金東奎社長、彼は最初に楊斌氏に新義州経済特区を成立と提案した、間中は楊斌氏です。
実は平壤にいる間に最も気になるのは平壤少年宮を見学し子供達の演出を見た事でした。
小芸術家達の演出は実に素晴らしかったので楊斌氏を驚かせた。一緒に参観していた平壤園芸総社金東奎社長は「子供は祖国の未来だと金将軍がおしゃって居ました」言いましたが。「そうですね、中国にも一つ名言が有ります、其れは「祖国の花」です!」楊氏は頷いて言った。演出が終った後に楊斌氏は子供達の小さいな手を握って彼一人一人の痩せって居る顔を見て、実に気が重かった。彼は自分の少年時代を思い出しただろうか、その時期は中国一番困難時期で父が早くも亡くなれ、祖母のお茶を売る商売により祖母孫二人きりで生きてきた物でした。彼は初めて北朝鮮役員の前で熱い涙を流した。彼は即場に一船のハンバーかーを平壤の子供達に贈ると決定した。
2002年1月14日から22日まで、楊斌氏が李刚氏、辺守捷氏、周翔氏等欧亜集団の人員とオランダ農業専門家のジャッキ等を率いて平壤を訪問した。建設中の農業模範基地について状況を確認した。例えば、太陽温室の蔬菜種苗の生長状況、ガラス温室の骨組施工の問題等を北朝鮮と協調を行った。
太陽温室内では春のように暖かかった、蔬菜種苗は欧亜農業エンジニアの管理で生き生きしていた。例えばトマト、キュウリ、インゲンはもう蔓延っていて初めの枝から小さいな花が咲いた、とっても人を喜ばせます。視察後に楊斌氏等及び北朝鮮の役員は認める意を示した。
1月21日の晩、北朝鮮園芸総社は牡丹峰ホテルの一階宴会庁に楊斌氏一行を招待した。宴会後、園芸総社の金東奎社長は楊斌氏と二階へ戻って楊氏の客室で会談していた。
金社長が席に掛けて言った「楊斌総裁は北朝鮮のお友達です、貴方は北朝鮮の為に沢山の貢献をして頂いた、しかも無私にして頂いた、私は金将軍と北朝鮮政府を代表し貴方を感謝致します!」
楊斌氏は金氏の肩を叩いて言った「私は小さいから中国で育てたが愛国主義と国際主義の教育受けた。私達の何十万の志願軍は命と鮮血を朝鮮の大地に残った事と比べ、私の一寸したお金と力は大した物ではありません!」
金東奎社長は大声で笑った「楊総裁は素晴らしいです。中朝両国人民の友情は血と火の試練に耐えた物です。貴方は朝鮮人民に対する感情は本気なんです、これは試練を耐えた物ですから、ところが貴方は商人であるので支出ばかりではいけないでしょう!でも私達の朝鮮はご覧の通りに、まだまだ貧乏ですが貴方に恩返せるものが無いです。金将軍が言っていた、貴方が要求が有れば何でもいいので言ってください」
「いいえ!いいえ!私は只朝鮮人民の生活が良くなって来て欲しいだけです。私の意見を考えて頂きたいと思います:朝鮮農民の生活は如何してそんなに貧しいですか?一つ原因は一年に半年しか働いていないからです。冬は何にもしないままで駄目でしょう?我々の農業項目は只模範区であって、ガラス温室を作るコストが高すぎるで朝鮮に展開して行けなくて少しだけ蔬菜と草花を生産して日本へ輸出する事になります。もっと沢山の太陽温室ともっと安く簡易な温室を作るべきです。貴方の国家で何十個、何百個の簡易温室模範区を作って、全国の朝鮮人民を冬場でも野菜を食べれる様にさせる。朝鮮農業はどうやって発展するのかについて私がもう一つの考えがあります……」
金社長は嬉しくて目が一線になって笑って言った「良し、好し。私が賛成します、貴方を支援する同時に感謝しています。ところが先も言っていた様に貴方は商人で収入が無いではいけない、これは私個人の考えではありません。楊総裁、こう言う風に如何ですか……」
金社長は北朝鮮政府を代表して楊斌氏を驚かせた提案を提出した:新義州の地区、即ち鴨緑江に後段に楊斌氏が27平方キロの土地を選らんでリースの形式で土地を開発する、それに経済貿易区として彼が管理を担当する。旨くいけば将来は拡大しても良いです
楊斌氏は余りにも驚いたので呆然としていた、これは彼が思うにもしなかった事でした。
金東奎社長は彼に話した、以前は羅津先鋒で経済特区を作った事がある。だがよく成功していなかった。中国で育て、西方の教育を受け、中国に戻り貿易を非常に成功させた商人の彼をこの小さいな経済貿易区を全権で担当するのを希望している。権力は羅津先鋒の朝鮮長官より多きにしても良い、土地は個人支配になり、収入は彼が朝鮮で農業を投資した利益として成れます。商社と資金の募集等等を一切彼に任せるが、一寸だけな「資本主義」と今国際に流行っている「市場経済」試験等までしっても許される……」
「楊斌総裁、今は返事しなくでもいいので、先ずは考えて見てください。出来たら教えてください。だけど、決定をしたら必ず成功して失敗は許せないです。必ず羅津先鋒より良い結果を出なければ成らないです!しないと私達とこれらの幹部は国家へ報告できなくなりますので!」
金社長の顔は突然厳しい表情が浮かべた。彼が言っていた「私達」とは彼達の部、局級役員の事に違いないです。
楊斌氏は金東奎社長が行った後、一人に座ってタバコを吸っていた……、これは彼が一番気に入る思考方式です。
翌日、彼は金東奎社長に話をつけた:彼は朝鮮政府が彼に対する信頼に感謝している、金将軍の厚い配慮に感謝致します。彼は朝鮮政府が与えた新義州経済貿易区を成立する事を受け取って、しかもきっと羅津先鋒より良くして見せる!
楊斌氏は宴会の中で北朝鮮外務省経済局副局長の金基秀と会談。
昼、北朝鮮の関係部門が連合し祝い昼の宴会を開いた。参加したのは外務省、貿易省、経済協力推進委員会、平壤園芸総社及び他の部門の重役でした。
夜、楊斌氏が園芸総社金社長及び外務省、貿易省等役員の伴いで新義州を視察した。北朝鮮側が提供した27平方キロの経済貿易区の位置は鴨緑江大橋と中朝税関と遠く離れている為、交通はとっても不便です、それに港と空港が無いので国際融資と建設に非常に不利です。
視察をしてから、楊斌氏は北朝鮮側表明した:27平方キロの貿易区は改めて企画をしなければ成らないです。国際化標準に従ってしないと、商社と資金の募集が出来ません。各道路、基礎施設を除けば外商に提供する工場を建てる土地が殆ど無くなり、国際化のオフィスビルを建てる事も勿論出来ません。
「せめて外商と専門家達に食べる、飲む、用を足す、寝る所を用意して置くべきでしょう?彼らの奥さん、愛人が来たら、何処に泊まるんですか?分って欲しいのは西方人、そうだ、又日本人達は女が好きですからよ!」楊斌氏が笑って朝鮮側の代表達に話した。ずっと真剣な顔をしていった朝鮮役員はその時にコソコソ笑った。
「Shangri-La、HILTONの様な五つ星のホテルが無ければ成らない、更に別荘、一流な別荘も無ければ成らない。西方商人と観光者に朝鮮新義州経済特区の建設は世界中の何処の貿易区よりも悪くない、しまも彼らのよりもっと綺麗だと見せます。
朝鮮側の代表達が思わず笑え出した。
金社長は笑えて言った「楊総裁は冗談をしているでしょう?」
楊斌氏が真面目に言った「いいえ、いいえ、私は本気で言っていたよ。そうだ、韓先生、」彼が正面に座っていた一人の朝鮮役員に聞いた「オランダ村へ行かれて、私の別荘に泊まったね、印象は如何ですか?」
あの韓役員は元々朝鮮のある駐マカオの貿易公司の総経理だった、彼は傍にいる朝鮮側の代表に言った「楊斌さんの別荘区は本当に綺麗だった、決してマカオより良いです!」
朝鮮側の代表者達が真面目に頷いた。
楊斌氏が続いて話した「私は新義州の経済貿易区を世界一流にさせる!ヨーロッパの都会と競争してジュネーブのみたいに綺麗で美しいくさせる、世界中各国の商人と観光者をここに風采を見てみたいとさせる、そして沢山のドルを残していく!こははきっと東北亜のポイントに成る、しかもこのポイントは韓国ではない、御免ね南朝鮮。日本でもなく我々朝鮮新義州に有ります!」楊斌氏の発言は情熱でユーモア、扇動性が強かったのですぐ朝鮮側の役員を頷いて承知させた。
楊斌氏が最後に又別の提案を提出した、それは:空港、港を含めて、貿易区面積を拡大し……朝鮮側代表達はこの件について中央方面へ報告必要が有ると表明した。楊斌氏は意外だったのは朝鮮側が直ぐに返事があった事です:金将軍の指示で楊斌総裁の意見に従って82平方キロに拡大する、北新義州を全部中に入れて新義州経済特区と言う名を付けた。新義州を82平方キロに拡大したについて馬寧氏が追憶して言っていた「2003年3月9日、丹東市副市長の曲仁田同志に我々を鴨緑江大橋まで送って貰った、私は始めて楊斌さんと新義州に行った、迎えに来ていた朝鮮側の役員の級別を見てから楊斌さんを非常に重視しているのが分った。私達は乗っていた国防委員会のマークのある車は間違いなく平壤から調達して来た車です。楊斌さん一行と金社長等人達は泊まっている鴨緑江ホテルも前に、人の通行を禁じされていて反対側に通行させた。ホテルの従業員と調理師は全部平壤から臨時手配で接待に参加した事でした。当日の午後、平壤園芸総社金東奎総社長、朝鮮対外経済推進委員会(略称経済協力)金勇術委員長、楊斌さんと私は小範囲の会議を行った。会議中に金東奎総社長は一つの地図を開けて、楊斌さんに話した、金正日同志の指示により、特区の面積は元討論していた27平方キロから82平方キロまで拡大したと教えてくれた。地図上の特区の境界は金正日同志が自ら規定した物です、上に金正日同志のコメントが書いてあります。開発方法も前に議論した経済開発区を中国深せい珠海の様な経済特区に変わった。経済の協力と楊斌氏は可能な限り早く当該項目の実質性の談判を行う事を望んでいる」
1997年、朝鮮は「薪島経済貿易区」を建てる予定が有った、朝鮮は新義州に「経済貿易区」を作る考え方は楊斌氏からではなく、1997年に早くも一回があった。但し色々な原因によりおじゃんになった物でした!
1997年の年初、朝鮮はアメリカ籍の朴敬允さんを返礼する為に、平安北道薪島、綢緞島一辺を開放する考えがありました。それは1994年の初めから1997年まで、北朝鮮は連続三年して何十年も出なかった大洪水に遭った、水田は殆ど収穫が無かった、朝鮮農業の破滅災難まで至った。一つの農業国家は三年続いて殆ど一粒収穫が無かった、それにより生じた食料恐慌は言うまでも無いです。其れにアメリカ等西方国家が北朝鮮に対して経済閉鎖を取り入れていた、朝鮮は極端な困難時期に臨んでいる、中国、ロシア等は朝鮮と友好国です、援助をしていたがあくまっても少なく力に及ばなかった。これは勿論更にその国を窮状に付け込ませた。国際社会の援助が極めて弱い、ある国はいろいろ条件を付帯するまでしている。アメリカ籍の朝鮮人朴敬允さんは国際主義精神と民族の情により無償にお米、石油等物質を寄付した事がある。ところが彼女は只一人の商人で有って、財力には限りがある。仕方なく彼女は知合いの友達と国際社会の有る慈善団体へ呼びかけた、其れに朝鮮人民の急用な食料、食品と災難救助品の募集に協力した。朴敬允さんの行動は金日成将軍、金正日総書記の好感を得た。だから、朝鮮政府は感謝を現す為に朝鮮アジア太平洋平和委員会を通して、その名義で朴敬允さんが会長を任する金刚山国際集団と会談した、新義州に所属している綢緞島、薪島の開放権を朴敬允さんに委託する事にした。彼女が外国の資金を導入し共同で土地の使用、旅行、貿易等経済活動を開発するのを希望していた。即ち「薪島、綢緞島経済貿易区」でした。
1997年3月9日、韓国「 中央日報」記者安煕昌氏、吴永煥氏は情報を知った後、当該新新聞紙にこの事をわざわざ撰文して報告した。今は原文の訳文を移ってここに載せる:
北朝鮮は薪島開放区を指示した。
韓国「 中央日報」により1997年3月9日記者安煕昌氏、吴永煥氏は鴨緑江河江口で成立した免税販売センター、歌舞庁、音楽、娯楽城(ギャンブル性質が有る)外国人は全員ビザなしで……「韓国資金も歓迎」
報告により、北朝鮮は平安北道、鴨緑江河口の薪島郡を指定して、外国人全員のビザ登録なしで入国、滞在開放区を開発して行った。
情報の詳しい人により八日「北朝鮮は薪郡で大規模な免税販売センターと娯楽城等の計画の中で、開発事業金刚山国際貿易集団の朴敬允さんに委託した」
情報の詳しい人により「北朝鮮は薪島を開放区に指定したのは中国の観光客を招く為からです」
薪島の開放は香港回帰(7月1日)により「香港需要」の前提に生じた物でした。北朝鮮政府は例え全面的にその地区を開放しても北朝鮮の住民に影響がないと考えていた。
情報の詳しい人は又「金刚山国際貿易の開発方は薪島を開発する為に華僑資金に対して導入するのを固めていた。但し韓国資金を含め、如何な資金でも入場を歓迎する立場だった。、同時に初期では例え臨時の建物でも免税販売センターを成立する計画が有ると称した。」
薪島郡は鴨緑江の三角洲に位置している、総面積は81平方キロ、綢緞島(71平方キロ)と麻島、馬島。怒積島、煞利島、四里島等を含んで構成された。
綢緞島に幾つの規模化化繊原料基地が建てられている。元は平安道竜川郡に編入してあったがその後に離された。今の行政区は薪島は一海里(黄金峰)二つ農場区の全部です。
新義州と22.5キロが有り、丹東市と0.5から3キロが有ります。
ところが、朝鮮政府は朝鮮アジア太平洋平和委員会を経由して朴敬允氏に委託書交付したのは、韓国の「 中央日報」3月9日に報道された後でした。即ち1997年4月3日です。「委託書」の全文は以下の通り:
朝鮮アジア太平洋平和委員会は朝鮮民主主義人民共和国の領土――綢緞島を国際観光地に開発する為に、必要な事前準備をして置く。その為、金刚山国際集団の朴敬允会長に委託する工作権限は以下の通りに成る:
1、 綢緞島の開発企画を立てる
2、 外国機関或は企業家の資金を引き込み、関係提携の準備をして置く;
3、 国際慣例に従い、綢緞島の土地利用に関する資料の調査を行い、及び各形式の土地使用権に興味のある外国人及び企業の調査を行う。
4、 綢緞島の外国人観光計画を立てる。
金刚山国際集団は委託権限を実行する時に必ず朝鮮アジア太平洋委員会、或は朝鮮アジア太平洋委員会が指定した共和国の関係機関と緊密な提携関係を保つべき、一切工作と活動は徹底的に共和国の関係法規に従わなければ成らない、共和国の政治、経済利害関係を保障する前提で活動を行うべき。
朝鮮アジア太平洋平和委員会
1997年4月3日
朴敬允氏は正式な「委託書」を貰ったから活動をし始めた。綢緞島、薪島と中国の丹東市は対岸に成っている。だから、中国遼寧省丹東市の役員の協力を貰うのはキーポイントに成ります。
1997年4月9日から15日、朴敬允氏は金刚山国際集団会長の名義で丹東市を訪問し、市政府の役員と薪島を開発関係事項について見解を交換した、一つの備忘録を書きました。
沢山の読者及びこの件に関心を持ち専門家のこの歴史を研究する用に、この「会話備忘録」の全文を写った:丹東市政府役員は金剛山国際集団会長朴敬允氏を会見し、薪島開発事項についての会話備忘録。
19974月10日10頃、丹東市政府劉延耀市長、唐永林、米克勤副市長、蘇永勝秘書長、外経済委員会主任耿仁涛等が、市政府二階のお客室で朝鮮金剛山国際集団会長朴敬允氏一行を会見し、薪島開発事項について会話を行った。
会談中に朴敬允氏は劉延耀市長に朝鮮アジア太平洋平和委員会から受けた薪島の開発委託書を見せた。朴敬允氏が言っていた、これは一つ移行方法を取り入れた、ある時間に成ったら政務院は又正式な委託状を下さる。委託状があれば薪島開発の前期工作を進める。只今開発は薪島、綢緞島から始まり、今後は黄金島等へ推進して行く予定です。薪島開発の全体企画だ出来るまでに旅行、貿易を先にして置いて、長期企画は薪島を中国香港の様に作りたいです。朴敬允氏は薪島開発するのに一番重要なのは資金問題だと主張した。これは丹東だけに頼ってはいけないです。韓国、香港、台湾、日本へ行き活動して彼らの資金を吸引しべきだ。丹東と提携するのは外商の歓迎と支援を貰える。朴敬允氏が言ったがこれらの国家の商の募集を彼女が担当し、国内のは丹東方面が担当する。薪島の対外は開放の吸引力を固めるために、羅津―先鋒自由貿易区と同じ政策を実行して、ある所はもっと優先政策を造っても良い事までに至った。
提携し易くために朴氏は両方が丹東に協力組織を立てると提案した。中国側の中に一名英語が出来るメンバーを配置し、朝鮮側も参加する人を派遣する。朴会長は5月上旬に又丹東に来る時に丹東市の関係人員と薪島へ行き視察をすると言っていた。薪島へ視察しに行く丹東市メンバーのリスト(10人位)を丹東市人民政府は朴氏が平壤へ行く前に、朴氏へ提出した、其れに丹東で新聞発表会を開くと表明した。
劉延耀市長は朴敬允会長が薪島開発委託書を獲得したのを祝った。丹東市政府は薪島の開発を旨く行くように朴氏を協力すると表明した。同時に朴氏へ薪島対外開放の新聞発表会を五月十八日の丹東絹布活動期間に行うと提案した。
劉延耀市長は薪島対外開放を迎える為に、丹東市の関係部門は既に準備をして置いた、朴会長は若し考えと要求が有れば、何時でも提出して下さい、丹東は全力を尽くし協力しますと言いました。若し計画方面は丹東の協力を必要であれば、丹東側は支援を提供できる。そして薪島開発に関係する丹東方面の話し合い、協調、配合の仕事を丹東市外経済委員会主任耿仁濤氏が担当すると明確した、関係新聞の発表会の協力、準備の仕事については蘇永勝秘書長が絹布祭り事務所と外経済委員会を組んで担当する事に成った。
1997年4月14日
「会談備忘録」から朴敬允氏は薪島経済貿易区を「中国香港の様に」作ると希望しているのが分った。話により、これは朝鮮政府の認めを得た事でした。
噂により、薪島経済貿易区は建てれなかったのは朴敬允氏が担当している外国商社を募集計画が失敗したからです。又噂ですが、これは綢緞島に軍事施設が有るので朝鮮軍側が其処に「経済貿易区」を建てるのを反対している他に又幾つの要因も有るからです
一応、朝鮮は1997年に鴨緑江口の幾つの島で開放政策を実行すし「経済貿易区」を作る予定計画は行き詰る事になった。
四年後に朝鮮は旧事を取り上がったけど主役が変わって楊斌氏が重任を負う事になった。
場所も単なる幾つの島と「経済貿易区」ではなかった。楊斌氏の足取りがもっと遠くもっと早くに歩いていた、彼は自分の顧問、専門家達と一緒に子の事を進めて行きます。最後に金正日総書記に最初から最後までの気配りを頂いた上で朝鮮政府は驚くべきアクションを起こした、2002年9月23日に「新義州特区」の開放計画を公表した。
注釈:
①、②2002年5月9日午前中、中央丹東市委員会書記蔡哲夫を取材、場所は丹東ホテル。
③、「北朝鮮は如何して農業企業家楊斌を知ったのか?」について、作者は2002年6月、楊斌氏の伴いで平壤を訪問する時に牡丹峰ホテルで馴染みの朝鮮役員に聞いた、「これは金将軍に報告する事です」彼が笑って言った「我々は楊総裁を詳しく調査を行ったんです。その後彼を平壤に訪問、提携項目の交渉に招いたのが、全部金将軍の気配りで行った物です……」
④、2002年4月25日、私は平壤の化成洞の「平壤――欧亜合営社」及び温室を参観後に当社理事、副社長の王玉民氏を取材した。
⑤、2002年5月11日及び2002年11月27日、欧亜集団接待部主任周翔氏を取材した。
⑥、楊斌氏の取材内容