ホームページ
ご紹介
序文
前書き
火盗み者オンライン
関山論談
関連文章
関連写真

 

火盗み者オンライン

第六章 私は楊斌氏に付き添って平壌を訪問

楊斌氏は電話で私を平壌へ訪問するのに招いた

2002年4月15日の晩、私は何とか50万字の「大富天下」という本の原稿を完成させた「後記」を書き終わる後、やっと長い溜息をついた。3ヶ月の昼夜ペンを振って、何とか成果があって、出版社に言付けられた。この時、私の携帯電話は鳴った、「楊総裁はあなたに話があるそうです」沈陽オランダ村の総裁劉殿輝氏からの電話でした。
すると、私の携帯電話から楊斌氏の熱い声が聞こえた
「関先生、どちらに居ますか」
私は「北京の家に居ます」と返事しました。
楊斌氏が「関先生にお願いがあるんですが私の為に本を書いて頂けますか」
彼の考えは私は思うにもしなかった、「何を書きますか?」私は言葉を濁して聞いた。
「私の伝記です。貴方が書いた私の文章を読んだが、さすが有名な作家だけあってあれらの記者より良く出来ている!あなたの需要が一切私が段取するから、直ぐオランダ村に来て欲しいですが……」楊斌氏は大声で言った。
「どうしてそんなに急ぎでいるんですか?」私は不思議で聞いた。
楊斌氏はべつに私の質問に答えて居なく話題を変えて聞いた:「あなたは朝鮮平壌に行ったことがありますか?」
「ありません。あれは非常に閉鎖的な国で、普通の人は行けないのです。」私は思った通りに返事した。
電話の中で彼の笑い声を聞こえた、「あなたはパスポートが持っていますか?」彼は言った。
「ありません」と答えた。
「それでは、何枚か写真を用意しておいて、明日か明後日か沈陽に来て、一緒に平壌へ行ってください。」
「本当ですか」私は疑問な態度を持って確認した。
「本当です」彼は本気な態度を表した。
「……」
「あなたははできるだけこの2日間内瀋陽に駆けつけるほうがいい、私達はいっしょにいきます。」彼は電話を置いた。
彼はどうして私を連れて朝鮮平壌に行くのはさっぱり分からない。3月6日の晩の宴会で、私は彼が翌日チームを率いて新義州へ空港、港を考察しに行くことを知っていますが、あれのただ工事プロジェクトだとを思っていた。
朝鮮に関しては、うわさが多い。あれは閉鎖的で神秘的な国家です。有名な企業家の宋朝弟はかつて私に教えたことがあって、彼は「学習の革命」を画策して出版した後、第2のテーマは誰か彼に1冊の朝鮮の現状を紹介した本の推薦です。彼は原稿を組織して、彼が出版すると私を動員した。しかし、朝鮮現状と人民の暮らしふりを紹介する文章少なすぎて、私は北京の新華総社に行ってもただ新華社駐朝鮮記者が書いた2編の文章だけを見つけた。朝鮮現状を紹介する本を編集する考えが良いですが、しかし私は本当にどうすることもできないので、余儀なく宋朝弟さんの厚意と期待を婉曲に断るほかなかった。この事は1年を経ち、楊斌氏に朝鮮平壌に行って見学するに招いて貰ったのは、本当に「血眼になって探し回した」事でした。
私が平壌へ行って、沢山の工場を見学し、幹部と市民を訪問しようと決心した。そしてテープ・レコーダー、カメラ、数十個のフィルム、ノートと何本のパークペンを用意した。特に私が離れられないもの:2カートンの「中華」たばこ、2カートンの「三五」たばこを用意した。
4月16日、私は11の特急に乗って北京から出発した、瀋陽駅に到着する時は既に夕方になった。オランダ村は接待に派遣した従業員の耿薇薇さんがホームで私を迎えた。彼らは1台のベンツで私をオランダ村に送った貰って、別荘区D3に泊まる事になった。これは一棟の2階建てのオランダ式建物です、客間の中にすでにオランダの草花と果物をきちんと置いてあった。このような客に「アットホーム」な雰囲気を感じさせる事に私はとても感動した。
私は荷物を置いたばかり、オランダ村接待部の主任の周翔さんが、わざわざ別荘に私と会いに来て貰った。3月6日に私が初めてオランダ村を訪ねる時、彼がずっと私に同伴して、説明、見学したのです。友達と会うのは勿論嬉ので、特に彼は私と同じ趣味だし、どうしても食卓上でたばこ吸ったり、飲んだり、食べたりにしざるを得ないので、非常に楽しかったです。

楊斌代表団の部分のメンバー、左は王諾氏、中間は崔揚氏(女性)、右は楊大勇氏。彼らは平壌空港で楊斌氏の専用飛行機の前の記念撮影。(撮影 関山)
周翔さんは私に教えた、楊斌さんは近頃団を率いて朝鮮平壌へ行く、パスポートを持っている方は彼と一緒に専用飛行機機で陽から出発、パスポートがない方は「過江証」を申請し、即ち丹東市で鴨緑江を渡る臨時通行許可証を申し込んで新義まで行く、平壌側は新義州税関の所で待ってくれる、車で皆を平壌に送り楊斌さんなどの人と合流するとの事でした。
私は周翔さんに写真を渡して、翌日、彼は接待部の職員を丹東へ「過江証」の申し込みに行かせた。
間もなく、楊斌代表団のメンバーは全国各地から駆けて来て、オランダ村別荘区に泊り込んだ。食事と、会議で皆が顔合わせになった、中に私と会ったことがある馬寧氏が居て、会ったことがない王恵東氏、李粛氏、周放生氏等方が居た。私はこれでやっと楊斌氏が北朝鮮と1つ大きいなプロジェクトを交渉しているのが分った、新義州特区の計画、建設に関することでした。
新義州税関で驚いた無事な境遇
4月21日午前8時、オランダ村の総裁部の王琦さんは私と楊大勇弁護士、崔揚弁護士と一緒に、列車に乗って瀋陽から出発した、昼ごろに丹東に到着した。80年代および90年代の初め、私はかつて2度丹東市に来たことがあります。この青々とした山と緑水に取り巻かれている辺境小町は、私にこぶる良く印象を与えた、鳳凰公園と河沿いの鴨緑江公園の景色は美しくて、河辺に立って対岸の北朝鮮新義州市を眺めて、心に感銘が涌いてきた。
私と王琦氏、楊大勇氏、崔揚氏は税関の近くに有る一軒のレストランで慌ただしく昼飯を済ませてから、飲み物を買って持って行って、丹東税関のビルに駆けつけた、そこに王諾氏と合流した。王諾氏は港の設計と都市計画の専門家で、大連市港の設計院の院長です。彼は設計院の乗用車で直接大連から丹東に駆けつけたのです。私は3月6日オランダ村の晩餐会で、彼と同席だった、一面識とは言えます。今回は一緒に平壌へ行くのに、知人と伴えて、きわめてうれしかった。
私と王諾氏、王琦氏、楊大勇氏、崔揚氏はすべて「過江証」を使ったのです。私達の「過江証」は「丹東国際貨物蓄輸有限公司」の名義で取り扱ったので、私は自分の「過江証」を見て、職務の一欄に「経理」と書いた。その他の人はどんな名義で使うのが分らない。午後1時、蓄運輸公司は自動車で私達を鴨緑江大橋を渡して朝鮮の新義州税関に送った。税関だと言うが、実は只1つ大きい中庭で、1列の平屋でした!私が80、90年代に利用した深セン羅湖税関出入国検査ビルと香港羅湖の入境審査所入と違って、イメージした税関と大変外れた。
朝鮮側は私達を迎えに派遣した外務省役員がまだ着いていなかった、仕方なく私達は先に朝鮮側の税関の小さい平屋に入った。そこの地方は狭くて、中に人が一杯立っていって列に並んで手続きなり、捺印なり、検査を受けなりにしていた。私達は1列の古いソファーに座る人がいないので、皆が腰を下ろして休む傍ら、じりじりして待っていた。私が座ったソファーは、一つテーブルの直ぐ隣です、後に一人の人民軍少佐が坐っている、年齢50歳になった。私はポケットの中からひと箱の「中華」のたばこを取り出して、1本を抜き出して点した、少佐は優しい目で注視して見て、私は遠慮して1本手渡した。彼はたばこを受け取って、親指を伸ばして、良いたばこだと表していた。私も手の中の「中華」たばこを指して、朝鮮語で「ざすみた!」と言った。「とても良い」のたばこの意味です。少佐はしわだらけの顔は広げて、笑顔を現して、「ざすみた!」と返事した。
少佐は別に何の事もなくて、ただ二人の目下の士官の検査ぶりを見ていた。私はまた荷物の中から「三五」たばこを抜き出して、少佐に譲って、「タンベ」といった。(中国語の意味が「たばこ」です)少佐は喜んでたばこを受け取って、「カムサ ハムニダ!」と礼をした。(中国語の意味は「有難うございました」です)
私がそれを聞いて、非常にうれしくて、思わずまた1つの朝鮮語を出た「パンガプスムニダ」:(中国語の意味が「お会いできて嬉しい」です)
人民軍少佐は突然中国語で「あなたは私達の朝語が話せますか?」と聞いた。
「少しだけ、少しだけ!」私はすまなく言った。
60年代初期に、私は長白山地区まで下放された。あの時の下放された柳河県には、たくさんの朝鮮族が集まって住む人民公社と大隊がある、例えば5道溝大眼泉、、3元堡、安口鎮の辺り。あの時よく農村へ行って、朝鮮族の百姓の家に住んでいた、一軒一軒順番に食事を取って貰っていたが、4両食糧配給切符で一角元で一食で、何にを食べても同じです。時にはすまないと思って、また多く食糧配給切符とお金を多めに渡せない、あれはルール違反な事ですから、私が北京から持ってきた白酒「二鍋頭」を朝鮮族の百姓をプレゼントした、そのために多くの朝鮮族人と友達になった。私は又県政府で一人文学の愛好者、朝鮮族の学生の南永前さんを収めました、彼はその後詩人、文芸刊行物の編集長になった。あの時は若いので、朝鮮族の友達に朝語を教えてもらった、田舎で10数年、何とか少し朝鮮族の日常用語と朝鮮族の歌を覚えた。今は40年あけて、意外にも朝鮮の土地に足を踏み、そして思わず朝語を話し出した。

人民軍少佐はご機嫌にたばこを吸いながら、小さな声で朝鮮の民謡を歌っていた。
私も思わず小さな声で一緒に歌っていた。これは50、60の年代流行っている朝鮮族歌「小白船」と「ふふとり」です。
これは更に少佐に別の目で見されて、私の腕をたたいて「凄い、凄い」と言った。
検査を実行しる二人の尉級士官も私に向って笑った。
この時、平壌から急いで来た貿易省の通訳の朴成浩さんが新義州税関の入境審査所に来て、我々が入境審査所に検査してもらってから通関できると教えてくれた。
しかし、丁度この時に意外な事が発生した。
崔揚弁護士は若い女子で、彼女は別の部屋に入って人民軍女性士官の検査を受けた、意外な事に、彼女のかばんから何枚のフロッピーディスクが出た。女性士官は強情でコンピュータで開けて検査しようとするが、崔揚氏は断固として断った。彼女はドアを押し開けて「楊大勇さん」と呼んだ。
外の部屋にいる楊大勇弁護士は駆けていった、経緯をと聞いた後、「これは極秘文書で、あなた達は絶対に検査してはいけない!」女性の士官に言った。
しかし、女性の士官が厳しい声で「これは入境審査所です、いかなる人といかなるものを検査する権力がある。」といった。
彼女は強情でフロッピーディスクをコンピュータに入れようとしているので、楊大勇はせっかちになって、「あなたに教えておく、もしあなたはフロッピーディスクを開けるならば、政治の責任に負わなければ成らなくなる。あなたはおろか、あなた達のリーダ、新義州の書記が居ても、彼も開けます勇気がなくて、これはあなた達の中央の機密です!」と抗議した。
私達は外の部屋で彼らの争う音を耳にしたが、全員期せずして立ち上がった。1人の「中国側の代表」は急いで平壌から来る外務省の役員と朝鮮の翻訳を呼んできた。
こちらの朝鮮外務省経済局金副局長、数日前に「朝鮮側代表」の身分で瀋陽に着いたことがあって、オランダ村で初めての交渉に参加した。楊大勇は彼を知っていて、彼にこの数枚フロッピーディスクは関連新義州談判に関する法律書類だと教えた。外務省の金副局長は新義州特区の事は、軍隊側、若しくは新義州地方に対して、間違いなく未だ極度な秘密段階である、絶対に国境警備部隊の士官に開けられないと知っている。それで「これは秘密ファイルです、あなた達は開けることが出来ない事に成っているので、そのままこ通過させて頂けないでしょうか?」彼は女性の士官に話した。
しかし女性の士官が承知しない、平壌入境審査所本部の電話のがないと、通すことができないと言った。
外務省の役員は平壌に電話をかけるほかありません。1時間を過ぎて、「平壌からの電話があった、通すことができます。しかしフロッピーディスクをすべて必ず封印して、朝鮮側役員より平壌に持っていく、それからまたあなた達に手渡します。」入境審査所の1人の士官は私たちに教えた。
それで、やっと危ない騒ぎが静まった。
我々男性は電子検査メーターを通して全身を検査しなければならない、少佐は私だと見て、
私の肩を叩いて「カザ!」といった。(中国語の意味は「行って下さい」です。)
それで、私達は電子検査メーターの全身検査をしていないまま、順調に通関して車にのり出発した。
幸いなのは携帯電話をスーツケースの中で置いたため、通関時は平壌政府の役員がいるため、検査はそんなに細かくしなかった。スーツケースを開けて、検査員が中味をめくって調べていなかった、一目で見て済ませた。携帯電話は服の中に入れといたので、検査されなかっら。後から分ったが、朝鮮の税関では携帯電話が禁止されている。携帯電話を平壌に持ち込まれたのが幸いだと思っていたが、しかし使えない。平壌には発射と受信局、つまり衛星通信設備がないです、。平壌にいる間、携帯電話で国内の親友と通話できないのです。話により、10月以降平壌に衛星通信があって、携帯電話は使えるようになるそうです、携帯電話の数量はまだ少ないが。国際電話を掛けようとしたら、渉外ホテルでしなければ成らないです、例えば高麗ホテル、羊角島ホテルなど。
とうとう平壌に到着した。
私達は平壌から派遣してくる2台の車に乗って、新義州税関を出た。税関の大中庭の後に1本の通路があって、出入りできる。大中庭を出た後に、車は北へ走って北新義州市街区を横切った、それから南新義州に入った。道路状況はよくなくて、ベンツの車でも40マイルしか走れない、その上上下に揺れていた、南新義州を出た後に、車が止められた、人民軍は通行証を検査するので。平壌から来る役員と私が乗っている車の運転手の傍にいる「安内」(つまり同行員)も車から降りった。彼らは手続きをすませて、また引き続き前へ走りました。それ以後、道路状況は更に悪くて、しかも揺れが更に酷くなった、時には私たちの頭は車の幌にぶつかった。私は緊張して車両内の摘みをしっかり握って、体の揺揺れを防いだ。
幸いなことに車両外の田野が、みんなの眼光を引きつけた。道両側の木の枝はすでに青くてつやつやして、田野に既に朝鮮農民が牛で水田を耕している、春の耕作季節はすでに来た。遠い所は白色の村落で、一棟一棟の朝鮮式の農業の部屋により構成された。たまに、1台の旧式ガス六九の車は走ってきて、後の車両の中では品物じゃなくて、大衆です、労働者、農民、軍人はすべて1か所で押し合いをして、揺れ動いて、「ガーガー――ガーガーと」は走ってしていった。ガス六九車の後尻に暗い煙が出っていた。だぶん車は重油を使った原因でした!
私の気持ちはまだ非常に楽しくて、なんと言っても、これは始めてこの「3千里の国家」に足を踏み入れたので、真実な朝鮮農村の光景を見て、思わずに小さな声で1曲の朝鮮歌曲を歌い始めた:
青い山の坂下に、
広い平原、
美しく芳しい
緩やかな水流れ、
風に揺らぎ、
春の光に受ける……
王諾さんはそばでくすくす笑った。彼はこのおじいさんが、車に乗っていて辛いのに何処から若者の様な元気さが出たかと思いがって居るだろう?崔揚さんも笑って、「関先生、この歌は朝鮮の歌曲ですか?」と聞いた。
「そうですよ、これは50年代頃に習った歌だ」と私が答えた。
そこで、私は彼らに50年代に私達の若者はどんなに「抗米援朝」を熟知し、どんなに朝鮮人民を心から愛し、どんなに朝鮮の歌を好きなのかを……彼たちに語った。
楊大勇弁護士は「とても悪い」若者です、「おじいさん、又朝鮮歌を何曲か歌ってください?私達にも勉強させて!」彼は笑って言った。
みんな勧めで、私はまた「金日成将軍の歌」、「花を売る女の子」と「ふふとり」などの歌を歌いました。運転手と「安内」、はこの熟知した歌曲を聴いたら時々振りかえて微笑した。
私は度々丹東から持ってきたミネラル・ウォーターとたばこを朝鮮の友達に渡して共に享受した。
車は五峰里を通じて定州へ向った、清川江を渡って平安南道の新安州に入った。道中、たまに新義州から平壌への鉄道が見えてますが、はしっている列車がすくないです。たぶん、朝鮮の燃料の不足のため、列車のダイヤの割合に少ないだろう。私はガラス窓から外を見て、木はだんだん多くなってきて、これは新義州から出発したばかり時の丸坊主のような小山に比べて大きいコントラストになった。この時妙香山区に入るので、車も骨が折れて山道を回って走り始めた、粛川をおりて岩石里に着いて、間もなく平壌市の管轄範囲に入る。
前にいる王琦氏と朝鮮外務省の役員が乗っていた赤色ベンツは特にいなくなった、私達は止まって少し休憩を取った、再び出発しったら、瞬間、自動車はすごく安定で、スピードも上がった、両側の山の峰をさっと過ぎた。なんと自動車はすでに朝鮮の高速道路についた、この50キロメートルの近代的な高速道路は平壌市街区までに達します。
空は暗くなってきた、車が市街区に入る時、平壌はすでにネオンがついた所だった、至る所いビルあり、都市全体は光りで輝いている、初めて平壌に来る人を驚かせた!車が凱旋門を通った後、大同川に沿って曲がると近代化のビルのゴール前に来て、これは有名な羊角島ホテルにです。私達は各自の荷物を持って大広間に入った、ここはほとんど外国人で、意外にも中国の軍隊礼服を着ている大勢な男女も居た、彼らは中国人民解放軍の総政治部文芸団俳優でした。彼らは朝鮮人民軍の軍隊創設祝い活動を参加しにきた物でした。
羊角島で私達を迎える何人の朝鮮外務省、貿易省の役員の他に、先に着いた王琦氏、私達を接待する「平壌―欧亜合営社」の社長の葛憲民氏、副社長の王玉民氏も居た。
葛憲民氏、王玉民氏は羊角島ホテルの地下一層の中国料理館に、祖国から来た私達「代表達」を宴席を張ってもてなした。羊角島ホテルの地下一層はマカオ娯楽会社が借り切った物で、中には中国料理館、「ディスコ」のダンス・ホール、「マサッジ」と小型博打ホールが有ります。
中国料理館は大きくないが、数十人が入れます。私はわざとそこの酒と食事の価格を注意した、米ドルで価格をした為、国内アメリカドルと人民元の為替レートによって大雑把な価格を算出できる。1本小さいな「喜力」ビールは、国内のスーパーで約5元、6元ぐらいですが、ここのお徳価格は3ドルで、人民元に換算すると、25元になります。それから私達は楊斌の伴いで小型の博打ホールと「ディスコ」ダンス・ホールに行った、ダンス・ホールの中の小さいな瓶の「喜力:ビールの料金は5ドルでした、人民元を換算すると40元です。羊角島ホテルの料金は北京のいかなる5つ星ホテルと比べられる
私達は羊角島ホテルに泊まらせた。
無事に一晩を過ごした。
楊斌は専用飛行機乗って平壌に到着
4月22日の朝。私は早めに起きた、腕時計を見てみて、6時30分、北京時間です。ここはすでに平壌時間の7時30分でした。私はカーテンを開けて外に眺めて、各種の異なった風格のビルは緑の間に映っている事から、平壌の緑化がおおいです。私は下を向いて見たら、このビルが島の上で建ているのが発見して、青緑の江水はこの数十階のビル両側から流れた行く。後は、朝鮮の役員の朴成浩さんは私に教えた、この小島の外見は羊の角に似ているので、羊角島と呼ばれた。この島で建てた二つ近代化ホテルは、羊角島ホテルと呼ばれた。
朝鮮式と洋式をミックスした朝食を食べてから、私達はホテルの大広間で集まった、再度車に乗った。長い車隊は(この時に数名の朝鮮役員と欧亜――平壌合営社の葛憲民氏、王玉民市などを加えた)市街区を横切って、平壌空港へ疾駆した。
もとは楊斌氏の専用飛行機は平壌時間10時の到着予定だったが、瀋陽桃仙空港で遅れたため、私達は空港の貴賓休憩室で根気よく待つほかありません。この時、朝鮮政府役員達は休憩室に来て私達を伺った、トップしたのは一名の60歳近く、体又まだ強健な役員でした、紹介して貰ったから、私はこれが朝鮮園芸総社の金東奎総社長および外務省、対外経済協力推進委員会(私達が朝鮮の対外経済協力促進会と訳した)の役員だと始めて分った、彼らはすべて数日前沈陽オランダ村に行った朝鮮側の代表団メンバーです。
この時情報が入った、楊斌氏の専用飛行機は平壌時間12時に到着するだと。私は腕時計を見て、まだ1時間が有るので、2階の空港待合室を見学した。そこの商品棚に、旅客が選ばれるたくさんの朝鮮お土産が有った、例えば朝鮮人参、朝鮮人参酒、朝鮮人参キャンディ、朝鮮たばこ、カラー舞踊土偶、書画など、又は洋酒、外国のたばこ、輸入贈り物もあります……

2002年4月22日12時、楊斌氏の専用飛行機は到着した、朝鮮側の首席代表の金東奎氏は駐機場で楊斌氏を迎えた。(撮影 関山)
私はひとつ休憩室が見えたて、そこの本棚の上に人々に閲覧用に各種の画報、小冊子が置いてあったので、見に行った。朝文、中国語、英文、日本語などの異なった文字で金正日将軍を紹介する書籍が有った。例えば「金正日の略史」「金正日将軍のストーリ」「金正日の略史」、および金正日同志の著作。これは国内であまり見た無い事です、それで「金正日の略史」を取り出して、そこに立ち読みした。そばの人は私に、これらの本は好きであれば、誰でも無料で持ち帰れると教えてくれた、私は「金正日の略史」および金正日将軍関するの中国版をすべて1冊ずつ取り出した、そしてソファーへ持ち運んで読み始めた。
私は興味津々に読んで居る所、ある人が走ってきて、楊斌氏専用飛行機はもうすぐくると私達に教えた、私達は直ぐ下に降りた。私達はまた車で空港内に入って、滑走路からただ50メートルの所に止まった。約たばこ一本の吸う時間で、二台小型の飛行機はツバメのようにふわりと着陸した。車隊は楊斌氏の専用飛行機の下まで走った、プロペラはまた回して、風は又強い、小型専用機の扉が開いた。李剛氏、馬寧氏、楊斌氏、李粛氏、周放生氏などが飛行機から降りた。
金東奎氏は朝鮮側役員を率いて迎えに行って、楊斌氏などと握手した。先に到着した私達も楊斌氏などと握手した。朝鮮平壌テレビ局と新聞記者が其処に撮影した。
平壌テレビ局の記者は私達を1列にさせて、記念写真を撮った。簡単な歓迎儀礼が終わった後に、みんなはそれぞれ乗車した、そして10数台ベンツの車隊が浩浩たるに平壌空港を出た、再び市街区へ向って出発した。私は車隊の車のナンバー・プレートごとに、皆赤い五角の星が一個付いている事に気づいた。朝鮮の友達は私に教えた、これは国賓の車隊です。平壌の大通りで、女性の交通警察は一切走っている車へ止まる合図をして、国賓の車隊に道を空けます。若くきれいな女性の交通警察、白色の上着と青いスカートを身につけていて、指揮棒を使ってあか抜けて自由自在に車(平壌がオートメーション化の交通信号灯システムがなかった)を指揮する、彼女たちは前後、左右、向きを変えて、振り回して、本当にまるで舞台の上の女性ダンさが軽やかな音楽に合わせて艶やかに踊っているみたいだった、これは平壌の大通りの明るく美しい景色で有る。2002年4月22日12時、楊斌車隊は空港から平壌市内に向っている(撮影 関山)
車隊は先に金日成将軍の記念碑に到着した、私達は車から降りて歩いて石段を上がった。李剛とっくに瀋陽で準備した数十束の生花を私達に分けた。
みんなは金日成将軍の塑像に生花を献上した。
私は持ってきたオリンパスカメラでみんなのためにこの記念性のシーンを撮った。
それから、車隊はま浩浩たるに右へ左へと曲がって走った、大同川を沿って東へ走って、玉流館に経由し(これは平壌の最も有名な朝鮮冷麺屋です,金日成将軍が生前よくここへ冷面を食べにくるそうです。この民族風格を備えている冷麺屋は江を沿って建てられたのです、2層だけですが、面積数何千平方メートルもあります。2階はいくつの貴賓ホールから構成され、寛大、そして心地良くて、ベランダで更に大同川の風景に眺められる。私達は平壌にいる間、そこへ風采を見に行った事がある、其れに有名な朝鮮冷麺と各種小料理を味わう事もあった。)店前に往来が盛んでにぎやかに待っている人群れを見て、車隊は牡丹峰公園を通って、江を沿って建てられた景色が非常に美しい牡丹峰ホテルに着いた。入り口に、見張りに勤務している人民軍兵士が車隊に向って敬礼した、私達はここが普通の人が立ち入り禁止されていて、外国の国家元首級だけ接待する国賓館だとが分かった、
私は2階に泊まる事になって、これは居間、お風呂場に洗面所、客室を付き部屋です。木の床にじゅうたんがあって、部屋は広い、居間にソファー、茶卓と大きいなデスクがあって、机の上にテレビがあります。また1つの大きな本棚がある、中に色々な朝鮮踊りの泥人形が並べている。茶卓の上で、朝鮮人参の茶が置いてある、冷蔵庫の中で朝鮮産の果物とお酒とミネラル・ウォーターがあります。洗浴の洗面所に、朝鮮産の歯磨き、歯ブラシ、石鹸があります。私はお湯の蛇口を開けて、お湯が出た。ここは24時間お湯を供給するのです。部屋の中は北京の5つ星のホテルのような近代的な設備と供給がないが、例えば電気湯沸器、電気コーヒー・ポット及び小さい電器とコーヒー、白砂糖、各種のお菓子、各種の飲み物など、しかし供給は整っていて豊かだと言える。
楊斌氏も2階でした、彼の部屋は外国の国家元首用に用意して置いたと思います。二間の居間に1間の客室と1つの洗浴の洗面所で、すべて非常に広く設備がそろっている。ベランダの広さは20人を座って納涼する事が出来る位です。そして大同川に直面して美しい景色を鑑賞することができます。大居間に大きなデスクと沢山のソファーがあって、羨ましいべき事はデスクの上に1台の国際電話が使えることです。
毎日の夕食後に、私達はいつも楊氏の客間へ行って彼と話します、大きいベランダでお茶を飲んで、会談の情況を議論した。
22日晩、朝鮮側は楊斌代表団がすべて平壌に到着するために牡丹峰国賓館で歓迎会を行った。
その夜、平壌テレビ局は楊斌氏が視察団を率いて平壌に到着したとニュースを放送した。
23日、平壌で出版された「朝鮮労働新聞」の第1面の右の下で初めて、掲載して報道した、そして空港で撮った朝鮮側と楊斌代表団のメンバーの写真を配った。朝鮮側は私にその日の「朝鮮労働新聞」贈った、私は北京に持ち帰って、ずっと保存しています。
私は楊斌に付き添って賭場に行く
23日午前11時(北京時間の10時)、私達は平壌国家大劇場で朝鮮人民軍の歌舞団が朝鮮の人民軍を建軍70周年のお祝い公演を観覧するのに招かれた。
午後、朝鮮国家のテコンドーの代表チームの出演を観覧した。
夕食後、もと代表全員が休む予定ですが、道迷いを防ぐため、個人で牡丹峰国賓館を離れることが許さない事です。私は独りで居間に戻ってたばこを吸ったり、お茶を飲んだりした。テレビをつけた、平壌は2つチャンネルしかないが、しかもすべて朝鮮語です、しかしなんといってもこれは初めて朝鮮テレビを見る為で、まだまだ新鮮な感じです。
突然、楊大勇弁護士は1階から走ってきて「早く、おじいさん、皆が待って折りますよ!」と私を呼んでいた。
「皆様は休んでるじゃなかった?」私は聞いた。
「速く、速く、みんなは車に乗ったよ」楊大勇は焦って言った。
「どこへ行くの?」私は依然として分かりません。
「楊さんはみんなを連れて羊角島に行きます!」楊大勇は笑って言った。
私は急いで彼と一緒に降りて、ビルの入り口を出て、ふと見ると楊斌はすでに長くしたベンツに座っていた。私は急いで楊大勇について後のマイクロバスに行って、中は佟連発氏、王諾氏、黎律師氏、王玉民市などは着席して居た。
楊斌氏の車隊は牡丹峰国賓館を疾駆しだして、市街区を横切って、また私達が昨日晩に食事をし、泊まった羊角島ホテルについた。私達は楊斌氏を付いて地下一層へ奔走して行く、今度は1人の朝鮮役員もいない、地下一層では朝鮮役員が立ち入り禁止されているのです。私はかつて楊斌氏と2度も平壌に行って、そして彼の伴いで何度も羊角島ホテルへ博打しに行った、だが一度も朝鮮役員達が地下一層へ遊びに行くのを見たことが無いです。彼らが非常に外交事務の紀律を守っているのが分った。
地下一層には私達が食べた中国料理館以外、「ディスコ」のダンス・ホールと「マサッジ」および一つの博打ホールがあります。
「あなたは賭場に入ったことがありますか?」楊斌は私に聞いた。
「初めてです、どんな様子か本当に分からないです?」私は笑って言った。
「私について、私の運を見て下さい……」彼は非常に得意げに笑っていった。

筆者とロシア、ブルガリアの芸術家は平壌羊角島ホテルでいっしょに写真を撮った。
私達10何人は一斉に賭博場に入った、楊斌氏は前を歩いて、彼についてっと言われる以上、私は後を付く他が無い。欧亜集団総裁部の王琦氏と劉殿祺氏が急いでチップを交換しに行った。赤色の小さい札は1 000ドル、グレー丸い札は100ドル、10ドルもあり、5ドル、1ドルの各種のチップがある。4つの大きい台があって、それぞれ、名目、賭け方があります。楊斌氏と初めから最後までに10数回もいったことがあるが、しかし今になっても私はこれらの大きい台がどんな呼び方、賭け方、勝ち方がはっきりわかりません。しかし入り口の近くにある2つの小さい高台を、しっかり覚えた。あれはトランプで「21点」のばくちのに使う台です、賭け方は最も簡単で、お金は最も少ない、普通の観光客に用に設置された。楊氏は賭場でお金を勝った、私達に1人当たり100ドル或は200ドルを配った、そして「代表達」は皆「21点」の台を囲んで賭けた。私もかつて「多き流れに従って」何度か賭けたことがあって、勝ち負けは大体相殺した。
楊斌氏は「大」「小」の賭ける台に坐った、最初はただ100元、200元、500元がちょっと手並みを見せたが、彼は機会だと思い、2条の小さいチップを投げた、更に5条の小さいチップも投げた。あれは2000ドル若しくは55000ドルに相当する物です。運が良くて、続けて何条のチップを勝った、私はずっと楊斌氏の後ろに立っていた、その後彼は勝ったので、ご機嫌で私を彼の傍にで座らせた。彼の目の前はすでにたくさんの赤い条、丸い札を勝ったいた、「どうですか?悪くないでしょう」喜んで私に聞いた。
「運が本当に良いね。」私は言った。
「あなたがいるからさ!」彼は言った。
そしたら、彼は2本の小チップを取って、「関さん、みんなに分けて、一人ずつ二百に、勝敗はすべて自分のです」私に言った。
私はこの2本の小チップを20の100元のチップに交換して、1人二つずつに。そして、皆が「21点」の台へ小賭けしに行った。
すでに真夜中の頃、私は隣の「ディスコ」ダンス・ホールに行って、そこにるたくさんの外国の役者がすでに押し合った、自己満足に踊っていた、李剛氏、王琦氏、王玉民氏などはソファーに座ってただビールを飲んでいた、彼ら退屈で時間を潰して、楊さんの賭けゲームを終えることを待っていた。サービス係は私に一本の小さい「Heineken」ビールをくれた、残念ながら私は胃の冷え症患者で、ほとんど冷たいものを飲みません。しかし李剛氏おこりで、厚情に断れないので、少し飲んだからそこに置いた。「ディスコ」を踊っている何人かの外国の若い役者は私達と前日に「羊角島ホテル」で、一面識があって、その中に何人かのロシアから来た役者と、ホテル内の外貨売店でちょっと話した、そして一緒に記念写真を取った。彼(彼女)達は私の所に踊ってきて、手を振って挨拶した。ロシア、ブルガリアの役者達は中国人に対して尊敬、友好的な感情をあらわした。
其処の外国人が「ディスコ」を非常に思う存分に踊っているのに、中には一人の中国人も居なかった。逆に、博打ホールの中に中国人だらけで、普段着に着替えた総政治文芸団の役者と出演企画会社の人もいたが、中に黄色髪の毛、藍眼睛ヨーロッパ人一人もいなかった。腕時計を見たら、すでに夜1時に過ぎた、身を抜け出して再び博打ホールに戻ってみんなの運を見る事にした。
私は「21点」の台の前に坐ったばかりに、楊斌さんがきて、「関さん、見ていて、私がやる!」と言った。
この台にいる6名のいわゆる賭け客がすべて「楊斌代表団」のメンバーだ、賭けるに使ったお金は楊斌が私を彼らに配らせた200ドルのチップだった、彼らも殆ど初めてこのような所に来たので、毎回の出資がすべて5ドル、10ドル小さいチップだった。楊斌が入った後に、最大の1 000米ドルのチップを3つ置いた。彼は第3位置で、前に二人のを見て、また自分のをみた、17点だった、彼は札が要らないが、他の人を要るか要らないかに指揮していた。特に第6位の番になる時、本来は持っている札が「18点」なので、札が要らなくても良いだったが、楊は彼を「いる」とさせた。結局連続に2枚の小さい札を要して、結局「パーだ!」。ビッグプレーヤーの手には「16点」で、要しなければならない。彼女は札を取り始めた。「パー!パー!」楊斌氏は大いに呼んだ。
やはりビッグプレーヤーのが、「パーになった!」規定に基づいて1倍~1・5倍の割合でみんなに弁償した。すでに「パーになった!」の第6番目もセーフだった。
楊斌は喜んで席の上から跳び下りて、「ありがとうございます!」と呼んだ。突然彼は1回転の踊り動作をした、床は滑るので立てられたく、仰天向けになって転んだ。崔揚弁護士及と王諾氏2人は彼をしっかり掴んだ、そばの人も直ちに彼を引き止めた。楊さんまったく先の危なさに気にせずに依然として興奮して大声で言った:「ありがとうございます!じゃ、帰ります!」
楊斌氏はこの時完全に自分の身分を忘れて、一人「悪戯子」の様で、小さい礼節に拘泥しなく、会場全体に笑い声を出させた。ある賭け客は:「楊さん、明日また来てください!」と呼んだ。
私達は言ったり,笑ったりして賭博場を出た。

この夜、楊斌氏は一大に勝って、現金に両替した後に意外に20000ドルもあった。私は頂いた200ドルをとっくに現金に替えて、大広間へ120ドルで10冊ひとまとまりの朝鮮外国語出版局が出版した中国語版の「金日成の回想録」と一冊の朝鮮切手を買った、すこぶる収穫があると言えます。
金正日将軍は2度「楊斌代表団」を4月25日朝鮮人民軍の建軍70周年の記念日を参列に誘った。朝鮮は金日成広場で盛大な閲兵式の祝賀活動を行って、主に民兵と象徴性の各兵種だった、例えば海、陸、空の部隊と軍事学院の学生です。
私達はすでに式典に参列する知らせを受け取って、その上「これは金将軍が点呼した招待だ」と告知された。
朝食後、みんなはすべてスーツに着替えて、ビデオ、カメラ、フィルムなどの用品をきちんと持って、早くも各自の車に乗った。金社長のベンツは前で走っていて、楊斌氏の長くしたベンツはその後について、私達は順次に長い車隊の並べを作って、それから出発した。路上を障害なく通行した。金日成広場に到着した後に、楊斌氏は金社長のお供で金正日同志の接見を受けて、そして招待に主な特別席に行かされ、私達は右側の特別席で適当な場所に置かれた。特別席に上がった後に、これが各国の使節と武官達の席だとを分った、私達の前は2列中国駐朝鮮大使館の武官と中国の軍事式典の参加団です、これは中国人民解放軍総政治部と瀋陽軍管区から来た小型の軍事式典参加団です、朝鮮人民軍の創始70周年の記念活動に参加する為、平壌に来たのです。および参観団と一緒に来た総政治部歌舞団の役者達もいた。前日に彼らは平壌で祝う公演を行った、金正日将軍は自ら劇場まで見に行かれた、そしてみんなと一緒に記念写真を撮った。

2002年4月25日は朝鮮人民軍の創始70周年の記念日です。朝鮮は金日成広場で盛大な閲兵式の祝賀活動を行った。写真は閲兵式が始まる時の情景です。(撮影 関山)
特別席の上には違う皮膚の色、違う軍服の各国の武官達、およびスーツを着ている朝鮮の同行員がいる。特別席一番後ろの列に、若い朝鮮人民軍の女性士官達が英姿さっそうとして立っていた、各国の武官の絶えず注目を引き起こした。女性部隊達は私達式典参加者の安全を守る役目です、私達が彼女たちを撮影することを丁寧に断った。
広場は威力の人民軍の方形陣形が入った、彼らは絶えずに隊形を換えて、整然として秩序があります。その後、朝鮮役員は私達に教えて、これらの人民軍はただ軍人だけです、つまり朝鮮の民兵です、米国と同盟国、また外国のマスコミが朝鮮の閲兵を掴んで大げさに言い立てることを防止ためです、今年の閲兵式は武装兵力の展示を行わない、民兵から担当しているのです。朝鮮の国防委員会主席の金正日とその他の朝鮮の党、政治、軍リーダが主席台に上がる時に、10万大衆と民兵の中で「万歳!」「万歳!」地が震って山が揺れるような歓呼の声がした。私の若い時かつて中央新聞記録電映製片厂で働いて、何度も建国記念日の撮影と行進に参加したことがあって、このように大衆の内心から発する歓呼の声と光景について、見慣れた事だと言えます。私達の中国から来た「式典の参加者」にとって長年耳にしていなかったのです。
三軍の楽団と儀仗隊は出場した。
検閲車の上で朝鮮人民軍の「閲兵総指揮官:は立っている、彼は貴賓席、金正日に「三軍が検閲を待っております!」報告した。
「皆様、こんにちは!」金正日は大声で言った。
検閲は始まった。「人」の字の形に並べるオートバイクの車隊で道を切り開いて、1台の金日成将軍塑像が付けていて、赤旗をさしあげるオープンカーは後ろについていた、それから三軍の各兵種、軍事学校の学生が歩き過ぎいた、さっき広場にある人民の軍の方形陣形は陣形を変化して隊形が斉はごしごしと貴賓席を歩き過ぎいた、軍隊が広場をあけておいて貴賓席に向って行進する時、四方八方から紅花を挙げている数万大衆が来て整然とした秩序で先空いた方形陣形位置を取って代わった。隊列の中から白色あるいは黄色あるいは緑色の花で「425祝い」金正日将軍万歳!「などの大きな字のスローガンを変化しだした。特別席の上の武官と賓客達から拍手の音を爆発した。
三軍の儀仗の隊列は全部を歩き過ぎた。
数万の生花を高く上げている大衆は、突然そろってごしごしとを主席台囲んで、そして「金将軍万歳!万歳!」の歓呼の声が爆発した。
金正日同志は人民群衆に向って手を振って挨拶していた原因だった。
私達の特別席も歓呼の声が出た、音もますます大きくなった。金正日同志はすでに貴賓席の正面から右側に向かって、各国の使節と武官達に向って手を振って挨拶していた。この時に私は急いでこの人の心を奮い立たせるシーンを撮った。金正日同志は私達まで10数メートルの高台の上で立って、絶えずに手を振って振った!私の周囲の武官達、ほとんど特別席の全体の人が「万歳!万歳!」呼んでいるのが聞こえた。
私は深く感動された。これは朝鮮人民が心から発する歓呼の声です。あのような熱狂的で、あのような人に感動させた熱烈な雰囲気は、人を血液を加速されて、感情を抑えきれなくさせて、大衆の中を溶け込ませて、一斉に小躍りして、一斉に歓呼して、一斉に歌うにさせる!
閲兵式が終わった後に、私達が特別席の人の群れに従って外へでる時、私はまた祖国から来た中国人民解放軍の軍事式典参加を見た、3人の将軍と数名の大佐がいた。総政治部歌舞団の彭麗媛もその中にいって、式典時に彼女が私達の前に列にいた。この時に私達はすでに大通りまでに出た、駐車場はまた遠いです。彭麗媛さんが私の近くに来た時、私は彼女と挨拶した、そして、「斉心さんはお元気ですか?」と聞いた。斉心さんは習仲勲の奥様で、彭さんの母です。当年、私は楊献珍先生の家に斉心さんと1度会った事がある、、彼女は胡耀邦同志に頼まれて、楊さんを見舞った。
金正日将軍は部隊を検閲し終わって、主席台から右側に向かって、特別席の私達の客と各国の使節、武の宮達に直面して手を振って挨拶した。彼のは気さくでおよび親和の儀礼でみんなの崇敬を受けた。(撮影 関山)
私の挨拶対して、彭麗媛さんは感謝の気持ちを表した。この時、私達の「代表団」の同志はビデオカメラで私と彼女が談話しているシーンを撮った。祖国から来る人、みんなはいつも「竜の継承者」の感じと親しみさがあります。
それから、4月27日晩に、私達は再度に朝鮮労働者体育館まで「阿里郎」祭りの試演を観覧するに手配されて、。「阿里郎」祭りは朝鮮の1つ重要な芸術祭で、活動が大体2ヶ月掛かる手配されているそうです。私達が6月に2回目が平壌に着く時、この芸術祭はまた行っていた為。大規模な音楽舞踊に参加する大衆の役者と学生は10万人がいるそうです、まるまる6ヶ月を掛けてけいこした。
私達が近頃平壌を離れて帰国すること知った後、金正日は金社長に私達にぜひ「阿里郎 」の試演を見せるように指示した。これは「阿里郎」の最後の内部が公演で、金正日同志は出席して観覧した。私達は牡丹峰ホテルの向こうの大規模の体育館の時に到着した時、楊斌氏は金東奎社長から同伴して別の所で着席されて、私達は貴賓席の側に寄り左側の席に手配された。体育館内の全体観衆は大半数が軍隊の士官で、私達だけは招待された外国人です。私は手すりに寄った、上から下まで手すりにいるのが1列のスーツを着た若い「安内」です、彼らは安全・防衛を担当している、私達の右の下は主席台なので、間もなく金正日と朝鮮の党政軍の主要な責任者はいずれも主席台に着く、私達との距離は20余りメートルです。
この「阿里郎」の公演は人を一生忘れ無くさせる。全体の音楽ダンス、及び私の正面に即ち出席台観衆席にすべて役者です、彼らはカラー札で整然と各種の朝鮮の景色とカラーのスローガンを表した。あのような整然としてまちがいのない動作、全体の劇の筋ととれている配合は、感心べきだ!世界でどの国家やり遂げないといえます。あれは10万役者が半年余りの時間を掛けてけいこしたのです!あれは10万役者の心血で、彼らが祖国金日成と金正日将軍に対して心から愛を表現した結晶です!
ここで私は「阿里郎」全体の大規模な音楽舞踊史詩の劇の筋と公演の経過を詳しく述べないこのにする。
私達は4月に平壌に着いて、意外にも朝鮮でいくつの祝日集中した月に、そんなに多い芸術の活動に参加し、2度金正日に会えて、非常に幸運なことと感じた、同時に長い間今度の平壌の旅を深くしのびます。
私達の今回は平壌に来て「新義州特区の基本法」の交渉に参加して、副次的な地位になったとは思いませんでした。私達も会談を行いましたが。
4月の平壌の旅は「突破性の進展」がない平壌の会談です、朝鮮の多すぎな祝日に逢ったため、例えば平壌世界音楽芸術祭、人民軍創始70周年、「阿里郎」祭り序幕はおよび沢山の公演を観覧に招待されて、私達を完全に祝日の雰囲気の中で浸らせて、「新義州特区」の会談に関して、かえって副次的な番組になった。私達はひそかに今回の平壌の旅は「授業を受ける」と称する、即ち、勉強しに来たのです。朝鮮の人民が金正日将軍へあのような熱狂的な崇と敬愛が見えた、朝鮮人民の豊かな文化生活が見えた。
私達は初めて平壌を訪問する間に、会談は3回だけ行って、すべて平壌文化センターが開催したのです。
一回目は4月24日でした。
私達は牡丹峰ホテルで朝食を食べた後、朝鮮側役員の同行て、先に平壌の文化センターに到着した、2階の1間の大きい休憩室で席についた後に、たばこを吸ってお茶を飲みていた。暫くして、金社長と通訳の朴成浩氏は休憩室に皆と挨拶しに来た、そして楊斌氏と一寸話した、それから私達は3階の大きい会議室まで連れられて、朝鮮側の代表達は会議室の入り口で列を並んで歓迎した。みんなが順次握手した後に、それぞれ席についた。
「楊斌代表団」に参加したのは:
楊斌氏、馬寧氏、王恵東氏、佟連発氏、駱偉健氏、李粛氏、王諾氏、周放生氏、関山氏、楊大勇氏、崔揚氏。翻訳の金虎氏、および欧亜集団の職員王琦氏、劉殿輝氏。
「朝鮮側の代表団」の首席代表は依然として金東奎総社長で、およびその他の11名の体表と翻訳を担当している朴成浩です。金東奎氏は主人方を代表して、各位が平壌へようこそ、みんながよく食べて、よく遊んで、十分に休むことを望んで、会談もスムーズに進めもっと大きい進展が有る様に望むと簡略に言って挨拶した
私は中国で生まれ育ち、小さいときから受けたのは愛国主義とインターナショナリズムの教育で、小さいときから朝鮮と中国が「唇歯の国」なことを知っていて、「抗米援朝」を知っていて、中朝の友情を知っていた。今、私達は朝鮮に「新義州特区」の建設を相談しに来たから、みんなは家族です!家族は遠慮な話に重んじないで、新義州特区はきちんとして、成功に建設するのに、肝心な点は基本法です。外国の商人が最も関心を持ったのは「基本法」がどんな様子なのか見てから大胆に投資に来るわけです。「基本法」の最も重要なのは「3権力」で、外国人はあなたの司法のは公正かどうか、立法して投資家の安全、権益を守っているのかを見ている。「3権力」が無ければ「基本法」もない。3権力は特区長官に属する場合、それはつまり特別行政区です。これは私個人が権力が欲しではなく、企業と資金を募集し導入するのに都合よくさせて、成功に特区を建設し管理する為だと楊斌氏が発言した。
1名の朝鮮側代表は口を挟んで聞いた「楊斌総裁、名目上では依然として特区にして、実際には、つまり内容上では特別行政区の構築にするのは如何ですか」
「特別行政区は行政、司法、立法権があるので、言えば分るが。特区の意味は非常にはっきりしなく、べつにこの3の権力を含めていない。経済特別区の意味は非常に明らかで、即ち、経済の行政管理権力だけあって、司法権、立法権がありません。朝鮮の現在、このような特殊な情況に関して、もし独立した司法権、立法権なければ、どの外国の大企業と銀行は大胆に新義州に投資しますか?」佟連発が言った。

「私達の今度持ってくる「基本法」」と「基本協定書」は主に地理競争力のある新義州地区を最も理想的な投資環境にさせる為に、大規模の外国投資企業を導入して、この地区を金融、貿易、近代化産業と娯楽センターにします。すべてはこの目的をめぐって起草したのです。」
佟連発教授が言った「基本法」つまり「朝鮮民主主義人民共和国新義州の特別行政区基本法」(提案稿)。「基本法」(提案稿)は「前書き」の以外、全部9章に分けて、総計82条項です。
それから2002年9月12日に朝鮮最高人民会議の常任委員会を通っている「政令の第3303号決定」「朝鮮民主主義人民共和国新義州の特別行政区基本法」合計6章で、ともに101条項があって。後に「添付書類‘があって、共に4条項。
読者に「基本法」の変遷過程に関してはっきりに理解するように、「基本法」(提案稿)の章節、見出しを次の通り写し取ります
前書き
第1章:総則(1~10条)
第2章:中央と新義州特別行政区の関係(11~20条)
第3章:住民と基本的な権利と義務(21~39条)
第4章:政治の体制(40~48条)
第5章:経済(49~62条)
第6章:文化と社会の事務(63~72条)
第7章:対外事務(73~80条)
第8章:当法の説明(81条)
第9章:その他(82条)

「基本協定書」全名は「朝鮮民主主義人民共和国の対外協力経済推進委員会はオランダ欧亜国際貿易会社と新義州特別行政区を創立する基本的な協定書」(草案)、合計26条、章節、見出しがありません。
①会談中、朝鮮側代表は言った:
「特別行政区、これは我が国に対してまだ新しいです。香港、マカオは特別行政区と言って、50年は不変で、一国二制度のために実行するのは適当です。新義州にとって、私達の国家は繰り返して討論した、もし地区の名前は特別行政区としたら、あなた達の香港、マカオのように、いつも植民地の色を持ってので、私達はやぱり特区が良いと思って、その名前は経済特別区です。もしあなた方はやはり特別行政区の提案を堅持するならば、私達は最高会議に報告するようにします。」
これは金に次ぐ副首席の代表です。
私達は朝鮮側の代表団の成員が政府の各部門から来たのが知っていて、彼らの本人の理解程度を除いて、各部門、システムの責任者の見方がまだあって、更には朝鮮の最高の会議と金正日将軍の見方、決定がある。「朝鮮側代表」は指導者の意図を貫徹して、実行する必要が有る。しかし楊氏の専門家達の考え方はとても実際的で、まず代表達に「理解」させる必要が有る。彼らが「閉鎖」のため外部の世界を理解できない、国際上の様々な慣例を理解出来ない事を心配している。中国70年代の末、80年代の初め時の様に、たくさんの政府高級役員もあまり「開放」「改革」 を理解していなく、国際慣習を熟知していなかった、頭の中でやはり深く計画経済時代の銘印が持っていた。彼らはありのままに私達の観点、考え方を上に反映することがさえ出来れば、それも悪いことでは有りません
そこで、佟連発氏、駱偉健氏2人の教授はやはり会談の機会を利用して、絶えず彼らに状況を紹介して、根気よく解説し、彼らに更に私達の考えを理解させます。
二回目の会談は4月26日にで、まだ平壌の文化センターの3階で開催した。2つのグループを分けて、つまり法律グループは「基本法」を討論して、私は法律討論グループに参加した。経済グループは「基本的な協定書」を討論して、楊斌氏、馬寧氏等は参加した。
三回目の会談は4月27日です。グループを区別しないで、両方会談です、主に「基本法」を討論した。
楊斌の意見で、名前は「新義州特別行政区」を堅持して、そして行政権、司法権、立法権があります。
朝鮮側の意見、特区はある程度の行政権、司法権、立法権があることができて、しかし名称は依然として「経済特別区」にする。これは朝鮮側は始めて特区役員の法律上の権利、立法権を同意したのです。しかし詳しく説明を行っていません。翌日に「楊斌代表団」全体が平壌を離れるため、これで次回会談に懸念とした!
4月28日の朝5時、李剛氏は王諾氏、楊大勇氏、崔揚氏、王琦氏と欧亜会社の職員を伴して、朝鮮の旅行社の大型バスに乗って牡丹峰国賓館を離れ、朝鮮の園芸総会にいって、金東奎総社長などと別れの挨拶した。
日はどんよりして、雨が降りそうです。
大型バスは平壌を走りだして、高速道路に上り疾駆した。雨はついに降り出した。平壌を50キロメートル離れる所、大型バスが止めた。前に1台の車は止まっている、金総社長は私達に手を振って挨拶している。なんだこちらの60歳近くの老人、朝鮮の正部級役員が、ずっと私達をこの50キロメートルの高速道路まで護送していた、大型バスの上のすべての人を物凄く感動させた!
大型バスは雨の中でこぼこな道を走っていて、、私が知っている限りにより、又180キロメートルがある。これは去年金正日将軍は中国を訪問し帰国する途中、丹東駅で丹東市委員会の書記蔡哲夫氏と市長の姜作勇に言ったことです「私達も平壌から新義州までの高速道路を造る」、其れは子の180キロメートルの道のりの事です。車は昼ごろ11時40分に新義州税関に到着した。昼ごろ12時 税関はもうすぐ封関するため、私達は焦っていた、さもないと午後2時まで待たなければ成らなくなる。車に朝鮮外務省役員の同行者がいるため、通関するとき、べつに詳しい「通関検査?をしなかった。
私はまたあの「少佐」に出会って、彼は私に「平壌はきれいですか?」と私にきいた。
「すごくきれいです!」とわたしは答えた。
彼は非常にうれしそうにみえた。
私はついでに彼に一箱の「三五」のたばこをプレゼントした、彼は更に喜んで、私の肩を叩いた。
私達は丹東からきた小型乗合自動車に乗った、車が鴨緑江の大橋を通る時、私は大声で一人有名な詩人の詩を朗読した:
車は鴨緑江を渡って、
飛ぶように、
祖国、私は帰って来た、
祖国、私母親!
中国を離れてごく短い8日だけあるが、平壌が美しくて、きれいだが、その上ほとんど毎日祝日を祝う日のようにすごしたけれども、祖国と郷里をしのぶ真情は、依然として言語で表現ができないのです。
「ただいま!」みんなはお互いに握手して祝賀した。
注釈:①
南永前、1948年に生まれ、朝鮮族。吉林省柳河県一中で高校を卒業、その後吉林省の作家院へ研修して、卒業の後「長白山」「」(朝文)雑誌の編集長を担当した。中国作家協会、少数民族委員会の委員、世界の詩人大会の終生会員、中国朝鮮族発展研究会の会長。1971年詩を発表し、作品は「思い合い集」「山の魂」「神檀木」「ふふとり」「園融」などがある。
②「朝鮮民主主義人民共和国の対外経済提携促進委員会」、は中国語で。朝鮮語は「朝鮮民主主義人民共和国対外経済協力推進委員会」に訳してある;このは皆朝鮮の同じ機関です、両方の訳文が違うために、テキストの名称も違っている


住所:香港九竜大角咀海輝道十八号一号銀海第六座十八楼C座 訪問の人々
Copyright (c) 2008 www.peaceyb.com All rights reserved.