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第十一章 楊斌が行動監視にされた前後

楊斌特別区行政長官はニュース発表会で騒動を引き起こした。9月24日、世界の主要新聞、テレビ局のほとんどは朝鮮が新義州で特別区を設け、「基本法」を発表したという爆発的なニュースを報道した。
「イタル・タス通信社ソウル9月24日電」朝鮮最高指導者金正日は心を決めて、世界に朝鮮が経済改革テストを行う能力を表明した。金は朝鮮西北部で新義州特別区を設置することを発表した。
朝鮮が新義州特別区の設置について、中国が香港やマカオに実施した「一国二制度」の経験を吸収した。特別行政区には一定の経済や法律の自由がある。しかし、新義州を「国の中の国」と発表してから、朝鮮はもっと遠くに歩む。ここで中央、立法権力機関や執行権力機関に制約されない司法機関が設けられ、特別行政区立法会選挙は外国の住民が参加した場合に行われる。新義州は国際法の主体となって、当地のパスポートを発行する。
「中国ニュース網9月24日14時21分電」中新網9月24日電、イギリスのBBCの報道では、朝鮮は新義州経済特別区の最新発展を発表した。オランダ国籍の中国人楊斌は先週成立と発表したばかりの新義州経済特別区の最高行政長官となった。
楊斌は朝鮮首都ピョンヤンで行われた記者会見で次のように話した。彼は香港とほぼ同じ面積の特別区のなかで、0からやっていく。まず、朝鮮と中国が連結している132平方キロの地域から50万人を新義州に移す。それから、欧州法律体制により新たな法律制度を設立し、選挙という方式で立法機構や行政管理者を推薦し、西洋を含む外国から裁判官を募集する。
外国のメディアの報道によると、新義州は金融、貿易、商業、工業、先端科学、娯楽や観光をともにやる国際総合地域に建設される。それに、2052年12月31日まで、土地の開発、利用、管理権を持つようになるとはっきり規定した。
新義州特別区に対する外国メディアの多くの報道、丹東に集まった国内外のメディア記者が楊斌に対する追跡は沈陽に帰ったばかりの楊斌を大きく喜ばせた。
9月25日昼ごろ、私は丹東から車で沈陽オランダ村に駆けつけた。
楊斌の別荘に着いたとき、そこはたくさんの人でにぎわっていた。楊斌は応接室のソファーに座って、相変わらずラコステの白いTシャツに黄土色のズボンの身なりで、ただ顔がつやつやしていて、得意そうに各地からのお客さんとやり取りをしている。私が入ってきたのをみて、「関、なぜピョンヤンに行かなかったのよな。」と言った。
私は答えようがなく、笑いながら友達が譲ってくれたソファーに腰掛けた。タバコをともして、人々ががやがや特別区行政長官になった楊斌に媚を呈している。そのとき、お祝いに、新義州にビジネスチャンスを探しに来た人が絶えず来ていた。
その夜、楊斌はオランダ村白鳥湖熱帯雨林のガラス温室ホールで、招待宴会を開いた。慣例によって、私は相変わらず食卓で楊斌の向かい側に座った。
途中、楊斌は前に出て、テレビドラマ「渇望」の挿入曲を歌った。
悠々とした歳月、当時は戸惑ったときもあり
幻か本当か、選択は難しいな
世のむなしさ、私はこの身で経験してきた
こんなにも執着しているのはいったい何のためだ
正しいかどうか、誰か教えてくれる人はいないかな
心のそこで、素直に生活したい
正しいかどうか、誰か教えてくれる人はいないかな
……



楊斌は朝鮮側代表団の歓迎宴会で、テレビドラマ「渇望」の挿入曲-「悠々とした歳月」を歌った。そのしわがれた声は胸の奥からの感慨や哀愁を示した。感情は本当で、声は悲しいというものだ。(撮影 関山)
そのしわがれた声は胸の奥からの感慨や哀愁を示した。私はなんともいえない同情を感じた。数ヶ月の少しも離れなかった接触の中で、彼のことが一番よく知っている。何度もの朝、彼は「Toyota Landcruiser」ジープを運転して、わたしだけそばにいて彼と一緒に工事現場で検査した。彼は部下に怒ったり、工事会社の担当者に願ったりした。私は何度も彼や彼の代表団とピョンヤンに行って、新義州特別区の困難に満ちた交渉に参加し、ピョンヤンでハイテク農業モデル区の建設を見学した。国内外のメディアに疑問視され、彼は怒りや不安を禁じえず、欧亜農業株式の暴落で、何もできないむなしさや失望に満たされ、あせっているしかない。夜静かなとき、彼は電話で私を呼び出して、車で私をかれの別荘まで迎えてくれ私に心を打ち明けた。河北農村から出た運転手さんの沈良しか彼のそばにいなかった。揚斌の心の中の孤独やプレッシャーを私は感じた。彼の生活費は毎日100元あまりしかなかった。一日二食で、小さいお碗での米に2、3品の料理、たとえば、砂糖を油でいためて黄色にし醤油を加えて煮た豚肉、セリホンでいためた豆、豚肉に干し大根、豚肉の細切りに豆腐漬物などや白菜肉団子あるいはトマト肉団子スープしかなかった。かれは海鮮を好まず、レシピの変わりを要求したこともなかった。彼が食べたもっとも高い料理は魚の塩ものの丸煮だ。それは広東にしかない美しい魚の塩者で、1キロで20元あまりという高い値段を持っている。それだけだった。揚斌はほかのホビーや支出はなく、ただの止まることを知らない愛煙家で、一日4~5包みの「スリーファイブ」タバコを吸う人だ。この数十億もの資産で有名な企業家はこういう生活をしているとは思ってもみなかった。夜彼とおしゃべりをするのがなんだか怖い。それは、心からの彼に対する同情や仕方なさを感じていたからだ。昼、人々の前で彼は億万長者や強い人のように見えるが、夜になると、孤独で、そのなにふさわしい一人ぼっちの人だけだった。私は何度も心を開いて、彼にいろいろな忠言を出した。なかのいい交渉代表とも話したことがある。彼らは、「関、楊斌は神話を作る人で、物事のわかる人だと信じてあげて。しばらく私たちの話を受け入れなかったが、心の中では是非やどうやって歩むかははっきりわかっているさ。」といった。
この友人の言葉に、私は半信半疑だった。
9月26日午前中、楊斌から丹東にはたくさんの国内外の記者が新義州に取材しようとしたということを教えてくれた。一部の人は沈陽に着いて、楊斌に単独で取材したいようだ。辺守捷は目が回るほど忙しくて、手伝ってほしいと楊斌から頼んだので、承知した。
26日午後、オランダ女王皇宮で、つまり欧亜会社の事務ビル三階で、日本、韓国、アメリカ、香港それに中国大陸からの十数人がホールや二つの会議室にいて、にぎわっていた。三階に行く途中、なんとなく不安を感じた。会長アシスタント辺守捷の大きい事務室に入った。部屋のソファーで2,3人の韓国記者が座っている。その人たちは楊斌にいつ取材に応じるか聞きに来た人だ。
私が来たのをみて、辺守捷は重荷が降りたように「関先生、やっと来ました。手伝ってもらえませんか。」といった。
彼は韓国記者をあっというまに帰した。それで、27日午前中はニュース記者会見を開くことを教えてくれた。
「それはちょっとよくないじゃない。」と私は疑問の声を出した。
「いいから。楊会長が決めたんだ。関さんはスポークスマンで、私は司会者としてさ。会場の標題をみてみて。」そういって、とっくに設けた会場標題:「朝鮮民主主義人民共和国新義州特別行政区行政長官ニュース発表会」を渡してくれた。
冷や汗をかいた私はだめだと思った。辺守捷は研修生として日本へ言ったことがある。帰国後、彼は沈陽のある不動産会社で副社長をやっていた。その会社は欧亜会社に属した不動産会社と合弁したもので、その後は資金が撤去されたので、辺は欧亜で働くことになったが、何のメディア経歴や経験もなかった。
「やばい。大騒ぎを起こすに決まってる。」と私は心配してきた。なぜなら、楊斌は今外国の政府関係者の身で、ほかの国でニュース発表会をやるのなら、事前に主権国家の関連部門に報告し、許可をとらなければならないからだ。
「佟弁護士は来たか。」と辺に聞いた。
「もうすぐ。」と返事してくれた。
楊斌に招かれた伝記作家としての私はただのお客さんで、欧亜会社の管理階層のものではないので、そのことについて何の意見も出せなかった。ほかの方法を考えるしかない。それで、少なくとも佟連発弁護士に聞いて、関連の法律手続きから打開策を探ってみることにした。やっと佟連発弁護士が着いた。彼は楊斌に招かれた法律顧問だけでなく、新義州基本法の提出者、起草者でもあるので、彼の話は一定の含みがあるだろう。
佟が一通りみてから、私と同じように不安を感じた。彼はアドバイスを出した。
それで、辺は標題を「新義州特別区長官ニュース発表会」に変えた。
だが、私と佟はやはり妥当でないと思う。
なのに、辺はそのまま設け、会場を飾るようにと作業員に指示を出した。

届いた世界のメディアからの電報を見て、佟と一緒に記者たちが出したいろいろな質問や楊斌がピョンヤン記者会見で答えた質問の中から選んだものにより、標準回答アウトラインを作った。
だが、27日午後4時に行われたニュース発表会で、私たちが書いたアウトラインを楊はとうとう使わずにすんだ。
27日、午後4時、オランダ村アムステルダム駅の4階で、右のホールは世界各地からの記者数十名が集まった。そのなかに国内メディアの記者も少なくなかった。
欧亜会社副総裁李鋼、私や楊の政治顧問翁永曦の反対で、楊斌はやっと新義州特別区長官の名義でニュース発表会をやることをやめた。会場にあるもともとの標題はすべて赤いぬので覆われた。
私は楊斌と会場までいって、彼と肩を並べて座った。会議ホールをうずまった記者に向かって、わざわざ楊斌から二つの席を離れて、主席台の隣に座ってメモをした。
辺守捷は司会をした。彼は事前に今回は欧亜会社楊斌会長が記者との会見で、皆さんは気遣いなく楊会長と会話をすることができますようにと言い伝えられた。
2002年9月27日、オランダ村ニュース発表会で、左は関山、中心は楊斌、右は辺守捷だ。
楊斌:皆さんもご存知だと思いますが、三日前、私はピョンヤンで朝鮮最高人民会議の任命を受け、新義州特別区長官となりました。特別区長官になるのは私の長年の追及です。この追求は朝鮮人民に対する同情からのものです。朝鮮人民は本当に貧しいです。私自身も孤児で、同じ貧困から脱出した人です。現在、私は金持ちになりましたが、お金よりも平和、東北地区の平和や発展を望んでいるのです。オランダ国籍の中国人として、今は新義州特別区長官になった私は個人利益など一切なく、給料をもらう指導者だけです。朝鮮人民がいい生活を送るように助けようと思っています。
単独で私に取材したいという記者がたくさんいます。しかし、いちいちこれだけの記者さんを手配することはできません。それでニュース原稿を皆さんに配り、それからこの会見を設けて、ほかに何か質問がありましたら、そのときに言っていただきたいですが。
記者:21世紀経済新聞の記者ですが、新義州特別区についてもっと詳しく紹介していただけませんか。
楊斌:新義州特別区は自由な社会で、将来の法律は主に西洋の法律、たとえば、民法、刑法などを吸収して、最大限に人々の自由の権利を保障し、私有財産を侵害から守ります。この政策は50不動で、50年後は朝鮮中央政府が引き続き投資の財産を侵害から守る政策を使います。特別区は人種の自由を保証します。世界の人々が特別区に来るにはパスポートはいりません。朝鮮国民は朝鮮側がビザを提供します。今年から自由に新義州を出入りすることができます。物流は免税で、世界流通貨幣は自由に使われます。
記者:韓国朝鮮日報記者(吕始東)ですが、新義州特別区では、韓国人の待遇はほかの国と同じですか。
楊斌:新義州の法律はだれにでも平等なものです。それに、あなたたちには言語のメリットを持ち、ここは祖先の土地ですからな。特別区には2,30万人の労働力が必要で、主に朝鮮人です。韓国は新義州最大の投資家かもしれません。韓国の企業家や銀行家が投資することを歓迎いたします。
記者:香港文匯新聞の記者(郝暁鳴)ですが、26日欧亜農業は香港株式市場で売買停止となりましたが、もし新義州特別区長官になったら、欧亜農業はどうしますか。 
楊斌:ちゃんと手配しました。欧亜農業は私の10年間の心血で、私の子供なので、何とかします。個人株式投資家に安心してくださいとお伝えください。
記者:日本共同通信社の記者(塩澤莢)ですが、新義州はいつからビザ免除となりますか。特別区政府は何か経済政策でもありますか。
楊斌:あさっての30日からです。新義州特別区は当面世界でもっとも政策に恵まれた自由貿易区で、輸出輸入ともに免税です。肌の色や国を問わず誰でも新義州へ投資することができます。所得税は香港の15%、中国の30%、オランダの40%に対し、新義州では14%です。これは法律の公正を要求します。私はオランダ国籍なので、オランダの法律は公正を重んじていることがわかっています。ですから、新義州特別区の裁判官をヨーロッパ人に、公安局長も中国や朝鮮以外の人にしました。完全公正の社会こそ財宝を作ることができます。
記者:財政経済時報の記者ですけど、新義州の投資計画、規模や時間割を紹介してください。
楊斌:五年間で一定の規模に、10年間で東北アジア地区における一番美しい現代化大都市に建設する予定です。インフラに約1000億米ドルが必要で、全体的な投資額は4000億米ドルになります。
私個人は新義州特別区で給料をもらう長官です。私は商業職務を含めるほとんどの職務をやめます。新義州では、私本人は経営活動は禁止されています。三権を持つ私は投資活動をしません。すべては若者たちにやらせておきましょう。24日、BBCがピョンヤンで私に取材しました。私はこう伝えました。「私は世界の特別区の中で最も貧しい人です。董建華さんは100億を持ってから長官をしたなのに対し、私は財物何一つ持たないまま新義州に行ったのです。」
記者:韓国の記者ですけど、韓国を訪問する予定とかはありませんか。
楊斌:10月7日は韓国に企業界人物に会いに行きます。新義州特別区は韓国工業団地を建設します。それは外国の人が設計したものです。韓国人の民族習慣を尊重するため、韓国企業界人物の意見をお聞きしたいと考えています。
記者:どういう身分で行きますか。
楊斌:二重身分です。
記者:日本の記者ですが、近頃日本に行くつもりなどありませんか。
楊斌:日本へはすぐいきます。日本が一番かけているのは人的資源や自然資源ですが、中国や朝鮮の人的資源はとてもやすいです。北朝鮮の開放は中国と日本を連結します。東北アジアは将来性のある地区です。新義州に一番近いのは日本で、日本へは海底トンネルでもいけます。われわれは平和や発展の方法で東北アジア経済共同圏を実現します。これは日本、中国、北朝鮮と韓国の仕事です。
記者:香港経済日報の記者ですが、楊斌さんの権力はどれほどありますか。
楊斌:新義州特別区では、軍事や外交以外に、ほかのこと、たとえば、最終公判権は特別区自体が処理します。
記者:読売新聞記者(佐伯聡士)ですけど、中国、遼寧、丹東からの援助を期待していますか。
楊斌:朝鮮に新義州特別区長官に選ばれた原因の一つは私はオランダ国籍の中国人にあると思います。中国と朝鮮は肉親のような関係です。新義州が開放したら、遼寧、丹東は利益を得ます。中国外交部スポークスマンが言ったように、朝鮮が新義州特別区を設けることに歓迎し、支持します。
記者:財政や経済の記者(于寧)ですけど、沈陽では欧亜はたくさんの企業を所有していますが、どうしますか。オランダ村不動産の存在の問題について、国土資源部はすでに調査の人を派遣したようですが、それらの前景はどうなっていますか。
楊斌:委託管理をしますが、私本人は参加しません。CEOに管理していただいてもいいです。現在、私は新義州特別区長官で、これから商業活動には参加しません。オランダ村にある土地には何の問題もありません。それは聞き飽きた話だが、8ヶ月も聞き続けてきた記者がいますが、土地のことについてはご自分で遼寧国土局へ調査してください。
記者(韓国記者):どうやって金正日将軍と知り合ったのですか。
楊斌:金正日将軍が信じてくれたのは朝鮮人民に対する私の理解からです。小さいころから中国人民志願軍、愛国主義、国際主義教育がわかりました。長江のそばで育てられたから、鴨緑江の向こう側に朝鮮という国があることを知っています。
彼らの困難を深く理解して、民族や性格についても少ししっています。一部の国が言うようなことではありません。現在の困難はおもにアメリカの経済制裁がもたらしたものです。金将軍は132万平方キロの土地の建設を私に任せたので、私の身にある荷はとてもおもいです。
記者:香港商報の記者(徐迅)ですが、金正日将軍はなぜあなたを信じ、理解できますか。詳しく話してもらえませんか。
楊斌:三つの内容があると思います。1、信頼。一年間、私は素朴な感情を朝鮮に抱き、50年前犠牲になった数十万人の中国人民志願軍を見て、何で犠牲になったかと疑問を感じました。祖国を守るため、朝鮮人民のために、骨をほかの国に残しました。これらの忠烈の士の家族は今になっても自由に家族のはかまいりすることはできません。開放したら、中国人がいけます。2、朝鮮で考察しているとき、朝鮮民族はとても善良で、素朴で、勤勉な人だが、彼らの農業は立ち遅れたことに気づきました。私は自分の知能をもちいて、農業の面で諮問や指導を提供して、朝鮮農業の発展に役立ち、朝鮮人民とは感情が芽生えました。
三、朝鮮は羅津パイオニア貿易区をやりましたが、失敗しました。朝鮮が開放しようとしたら、外国人を特別区長官に選び、建設をするほうがいいです。オランダ国籍の中国人で、このような特殊な時期に、私という特殊な人が選ばれました。
記者:132万平方キロの建設計画や境貿易の前景はどうですか。
楊斌:新義州特別区は新義州市や大鶏島沿海地区を含め、この地区では大型水中バースを主として、全面対外開放を行います。発展目標は東北アジア地区の高度発達した経済センターを設立し、ハイテク産業、金融業、加工業、観光業を支えとした国際化地域を建設することです。特別区では、さまざまな優待政策が実施され、たとえば、金融面ではスイスの経験を吸収し、人々が自由に出入りすることができます。株式取引もあり、中国の中小企業の融資を助けます。概念株のも必要で、もし北京大学、清華大学などの若者たちにいいアイデアがあったら、新義州でもやれます。
記者:韓国の記者ですが、特別区は9月30日から自由に出入りできますか。
楊斌:9月30日以降、パスポートを持って、自由に出入りできます。丹東からです。どの国のパスポートもビザ免除で新義州に入れます。①
楊斌のこの言葉がでたら、すぐ記者たち、特に韓国や日本記者の驚いた声がでた。
楊斌は大騒ぎを起こした。「9月30日から外国人はビザ免除で新義州に入れる。」ということはすぐ世界中に広がった。が、9月30日なっても、どの外国人も自由に新義州に入ることはできない。朝鮮政府も韓国記者が入ることを禁じている。このことは外国記者の不満を起こし、特に韓国記者だ。彼らは次々と非難した。メディアからは、楊斌は政治経験が足りなかったり、あるいは楊斌は中身がないといった。実は、楊斌は人に告げられない苦しみを抱いている。朝鮮側代表団の関係者から彼に9月30日から外国人はビザ免除で新義州に入れるといったからだ。②楊斌のこの言葉がでたら、すぐ朝鮮外務省や最高当局の反対をもたらした。台湾の人に対する中国のやり方を学んで、韓国と朝鮮との交流を府進めようとしたが、反対された。
外国記者、特に長年北朝鮮の土地に踏みたい日本記者や韓国記者は楊斌に追い込んだ。楊は仕方なく、謝るしかなかった。この点において、楊斌は素直で、どうしようもないのだ。
第一回新義州特別区準備会議
9月27日から28日まで、元楊斌代表団のメンバーは次々と全国各地から沈陽オランダ村に駆けつけた。私はずっとオランダ村に住んでいた。
9月29日午前9時、私たちは続々とオランダ女王王宮-欧亜会社本店事務ビルに着いた。二階のホールや二つの会議室は国内外の記者でいっぱいで、混乱した様子も見られた。私は佟連発、王諾と一緒に人群れの中を通るとき、私の知っている外国記者から声をかけれら、情報を聞かれた。私は首を振って断った。三階の事務室を通って、四階会議ホールでしばらく休んで、ほかの人もまもなくついた。
楊斌は司会を取った。彼の前にアウトラインがあった。翁永曦が作成し、プリントアウトした二枚のものだ。
楊斌は長い会議テーブルの正面に座った。右側から馬寧、翁永曦、李粛で、左側から佟連発、関山、王諾、香港黎瀛洲弁護士だ、楊の向かいに座ったのは周放生だ。
喬勝利は奥さんが入院して手術をしているので、出席できなかった。
対朝交渉に参加していたマカオ大学法学学院の駱偉健教授はなぜかこの間の交渉に出てなかった。今回も原因不明で欠席した。
会議の前に、楊斌は黎瀛洲弁護士に私個人で全部の欧亜農業の株式を取り戻せるかと聞いた。できると黎は答えた。何で楊はそんなことを聞いたのだろう。私たちはプライベートで楊斌が10月中下旬に10億元の金額が入ることを知った。済んだ話だが、そのお金は欧亜農業株式のコール、オランダ村の関連借金や復旧などに使われる。ほんの一部は新義州特別区の前期建設に使われる。
2002年9月24日、ピョンヤンで特別区長官任命儀式前に佟連発と楊斌が万寿台議事堂で一緒にとった写真だ。
楊斌はこういった。「今日は新義州特別区準備会議の初めての会議です。私はキャプテンで、唯一のキャプテンで、金将軍に選ばれたキャプテンです。会議は主に組織フレームを研究します。今日1日でみんなのアイデアを集めて完成します。」
「私は政治に触れたことはなく、皆さんの助けが必要です。まずは原則です。一は朝鮮を愛すること。朝鮮がなければ、新義州特別区もありません。中朝両国人民に対しては平等に扱います。二は金将軍を愛すること。朝鮮には数十年の封鎖の歴史を持っています。彼はみんなの意見に反対し、これはなかなかのことです。三は効率的に、清廉の政府を作ることです。」
「チャンスは一生に一度や二度しかありません。国家はみんなのもので、私一人のものではありません。朝鮮は貧しい国だが、勤勉で、辛抱強い民族です。皆さんが新義州に行っても危険にさらされることはないと私は保証します。個人の利益を捨てて国家の利益を優先してほしいです。新義州特別区のために、欧亜農業上場会社の損は私は考えもしませんでした。オランダ村にはほかの人に頼んでもいいです。奥さんが反対したら、離婚してもいいです。(楊斌のこの言葉は数ヶ月後本当になった。楊斌がつかまってから、奥さんの潘朝蓉は離婚届を出した。楊斌は同意し、離婚手続きをした。彼女はいまオランダにいる。)これらはすべて小さい利益で、捨てられます。私は一生で小さい利益を求めません。4月、沈陽が約束した6億元のローンはだめになりました。かえって過去の借金を要求しました。私がここまで来て、容易なことではありません。わたしは歯を食いしばって耐えてきているのです。」
「特別区利益と指導者の職は一緒にします。」
「私たちのこれからの会議は記録が必要です。それから、はかどるかどうかも調べます。」
 「現在、世界のたくさんの政治家が新義州を研究しています。これは冷戦の終わりを示しているかもしれません。」
 「未来の経済は地域経済です。東北アジア地区は全世界でもっとも注目を集め、速い発展を遂げる地域かもしれません。」
「特別区政府は実行力が必要です。親戚であるなら、誰でも政府機関に仕事を与えてはいけません。私は親戚は一人も政府に連れてきません。今日でも、未来でも。友達に対しては、信頼するのは第一で、これは才徳を重視することです。第二は才能です。私たちのこの団体がここまで来たのは簡単ではないです。」
「第三は清廉です。」
「汚職は絶対してはいけません。私たちは0からやっていき、トップからクリーンでいなければなりません。権力を使って汚職は絶対だめです。在席の皆さん、何か罪を犯したら、私は特別区長官の権力を使ってでも助けに行きます。だが、誰かが汚職したら、私には一切関係ない。香港は1997年前、政府はクリーンな政治をやり始めました。香港の清廉役所はすごいです。お金で裏関係を作りたいなら、この政府は終わりです。」
 「第四の原則は中国の国家利益を守ることです。私は出身は中国で、嫁ぎ先は朝鮮です。豊かな生活ができるときは嫁ぎ先のことは忘れてはいけません。中国に申し訳ないことをしてはいけません。母親が誤解して、子供を殴っても、それは子供のためだと思っているからです。、子供は母親をうらんだりはしません。私たちと中国政府の問題はちゃんと解決しなければなりません。誰がこの原則に違反してもいけません。この点は公務員規則にかかれる必要があります。」
「次は規則です。特別区政府には自分なりのゲーム規則が必要です。」
「議事規則:重要な策略は特別区長官が会議を開き検討し、サインして許可を下さなければなりません。大きな人事変動は長官が会議をへて承知しなければなりません。」
「権限を授ける規則:部門長官は行政長官に対し責任を取り、下には全権制を取ります。特別区のイメージ維持には、優秀な青年を公務員に選びます。権限の授けは特別区長官が文書の授け書を与え、文書を主とします。厳しい資料制度を設けます。すべては法律によらなければなりません。」
「第五、機関設立です。」
「小さい政府だが、大きい社会です。特別区は完全に自由な資本主義制度を取り入れます。われわれの政府はフロントで、人民のために物事をし、人民のために奉仕する政府です。人民は入れます。区レベルの政府は策略を決める権力はなく、奉仕は唯一の任務です。この政府は何かを研究することもなく、ただ指示に従い、それぞれ執行し、正真正銘の人民に奉仕する政府になればいいです。」
「わたしたちは先進国の政府に学び、西洋のいいものをとりいれなければなりません。この点については皆さんは心配しなくてもいいです。金将軍から「すべてのことは楊斌が決めます。誰も変えることはできません。」という指示を受けました。」
「私は人間にとってもっとも美しい社会をつくりたいです。世界で一番の法律や制度、人材がほしいです。10年後、特別区の建設が終わって、もう一度そこにあるビルや輝きを見ましょう。それは全部みんなの努力と知恵です。」
「私は特別区長官ですけど、みんなの知恵に従い、みんなの知恵を消化し、発展させ、発揮することはできます。私には一つの長所を持っています。それはみんなの意見を聞き入れることです。あるタイプの人は一番怖いです。彼はもともと頭も悪いのに、自分の意見を堅持し、頑固で、人の意見に耳を傾けられません。人々の知恵を取り入れることのできないとは一番怖いことです。」
「特別区は民主政治を実施します。新義州特別区では、人々は平等で、長官でもトイレの清掃をする人でも一緒で、平等の人権を持っています。」
「特別区は市場経済をやります。われわれは計画経済から来たものです。みなさんも知っていると思いますが、政府の企業に対する関与がもっとも少ないところなら、そこの経済はきっともっとも発達していて、成長も一番早いに違いありません。われわれは策略を決めるひとで、下には関与しない方針を取ります。一部の指導者のように、自ら下の企業に関与するようなことはできません。それは目先の利益に間がくらみ、将来のことを忘れる仕方で、絶対してはいけません。」
「次は政府部門の設置です。」
「事務局は特別区長官の下に設置された指導者機関です。事務局の下には、秘書所、人事所、ニュース所、外事所、資料、行政、特別許可経営所などがあります。」
「財政金融局は財政、銀行、金融、証券取引所などを担当することになります。」
「税務局は将来にかかわるもので、特別区の支えでもあるので、税務警察が必要です。」「経済局は将来の外資誘致、経済事務、会社登録、登録、企業管理などの業務に携わります。」
「特種業務管理局は電力、テレコム、ばくち業などを管理します。」
「土地企画局は土地、都市企画、設計、競売などを管理します。」
「公共事業局は水、電気、公共事業、ガス、火力などの供給を処理します。あらゆる人民の生活に関することはすべて公共事業局によって処理します。」
「衛生局は医薬品、病院、防疫などを担当します。」
「それに、教育局です。」
「交通局は地上、空中、海上の交通管理をします。」
「移住民局は出入国の管理を担当します。」
「それから、税関局。」
「警察局」
「検察庁」
「特別区建設局」
「環境保護局」
「とりあえずこういうふうに、15の局に一つの事務局です。これから何か必要ならまた設置します。」
「立法院院長は佟連発が担当します。これから立法院議会の選挙を通過しなければなりませんが、朝鮮側はもう承知しました。」
「翁永曦を特別区長官のアシスタントに提案します。」
「馬寧は特別区建設会社の社長で、外資誘致や土地の競売などを担当しています。今日は友達の周建平もいらしました。彼はもともと上場会社の社長で、これからは馬寧の下で働いてもらい、アシスタントになってもらいます。われわれの食生活はすべて建設会社に頼るしかありませんよ。」
「会議が終わったら、周放生、李粛、王恵東、ちょっと話をしましょう。」
「黎弁護士は香港での仕事をやめ、特別区で働きます。黎弁護士に将来特別区の上場会社の文書を担当してもらいます。」
「具体的にいうと」
「10月25日、特別区長官が就任します。新義州の鴨緑江ホテルは臨時首府とします。そこで、内閣を組織します。」
「外資誘致ですが、10月には建設プロジェクトがありません。企画がまだですから。だが、時間にまぐめれたので、冬を利用して、外資を誘致することもできます。中国の丹東、沈陽、広州、大連、西安、重慶、上海に外資誘致事務所を設立し、委託制を用いてもいいです。日本の東京、韓国のソウル、アメリカなどにも外資誘致事務所を設立し、委託制を用いてもいいです。日本の東京、韓国のソウル、アメリカの西や東地域、香港、台湾、東南アジアなどは来月確定します。それは馬寧が担当します。」
「10月2日は新義州に行き、クライマックスを起こそうと思います。朝鮮側は支持の意を表し、すでに当地の人に盛大な歓迎お祝い会を動員しました。」
「10月7日、翁と馬に私と一緒に韓国に行ってほしいです。金大中が現れるかもしれません。私も皆さんをつれて日本へ行きたくて、韓国から日本に行きます。」
「10月11日から13日まで、もう一つのクライマックスを作りましょう。」
「企画設計ですが、王諾に急いでほしいです。できるだけ早く企画グループを作り、新義州で実地運営してもいいです。企画や設計がなくて土地の売買はできません。土地を一部売り出したら、私たちは助かります。」
「まずは皆さんのために資金調達をします。特別区のために皆さんが数ヶ月も苦労をしたことは知っています。しかし、お金はぜんぜん手に入りませんでした。今月中に皆さんの数ヶ月分の給料を補うことを約束します。」
「翁は給料制度を研究してください。最初は高くないほうがいいです。その後少しずつあげます。また、特別区事務局の人の特別区パスパートも急いで、設計、印刷などはほかの人が偽ものを作れないほどやったほうがいいです。それに、どうやって国際社会と連絡を取ること、警察国境守備軍の服装設計、できるだけ早く連絡交流所を作ることも考えなければなりません。」
「私は外国の記者にも会わなければなりません。彼らはいらだってきて、私からの解釈を待ってます。7月27日の記者会見で、騒ぎを起こした私は、7月30日から鴨緑江をわたることができるといってました。が、朝鮮側は承知してくれなかったんです。私は記者たちに応じますから、この後は翁が司会を取ります。」③
楊斌は言い終わってすぐ会議室を出て二階へわめき続けてきた記者たちを招待しにいった。その後聞いたけど、楊斌はずっと外国記者に謝り、彼が就任したらすべての記者が自由に新義州特別区に出いるするようにとの約束を実現すると言った。
翁永曦は新義州特別区長官アシスタントとして会議の司会をした。
彼は慎重にこういった。「まずいっとくけど、楊斌が私を長官のアシスタントと任命したが、私はただの情報伝達の役目を果たし、皆さんのために働くに過ぎない。馬寧はオランダ国籍で、楊斌会長の知り合いでもあって、最初から新義州特別区の策略、談判に参加してきた。楊会長は自分がキャプテンで、馬寧が一等航海士といっていた。私たちは彼らの指導の元で働いているのだ。」
「私は二つのことしか考えていない。一つはお金の問題で、もう一つは人の問題だ。皆さんも半年間やってきたので、どうであれ給料はまず支払わなければならない。お金がないと、準備委員会は何もできない。楊斌はかならず10月中旬に経費を取り出す。それから人の問題だけど、われわれには朝鮮語がわかる若い幹部が必要だ。吉林や遼寧で募集しても大丈夫だ。」
王恵東-「控えめくらいがいい。」
周放生―「今回佟院長は本当の院長になった。特別区立法院の院長として。」
李粛-「それは特別区長官と同じ地位の議会議長だな。」
佟連発―「それは楊斌が言ってただけで、議長は立法会が選挙によって選ぶもので、今はでたらめに言っちゃだめだ。」
李粛-「特別区の人事に関する特別区長官アシスタントの意見を聞かせてもらおうか。」
翁永曦―「特別区長官アシスタントの私はただの情報伝達のものに過ぎない。楊斌の指示によれば、さっきも言ったが、佟院長は将来の立法院院長で、周放生は財政税務局局長で、王恵東は事務局の下の外事やニュースを担当する。王諾は港か企画局にいるか、自分で考えて。」
周放生―「恵東、やっぱりお前は事務局を担当しろ。」
李粛-「そうだよ。やはり事務局のことだ。」
翁永曦―「10分間一休みしよう。」
それで、会議室を出て行ったり、トイレに行ったり、集まって小声で論議する人もいる。
王諾がそのまま座っているのをみると、佟連発は近づいて「王諾、なぜさっき企画局を受け取らなかったの。」と聞いた。
王諾は私のほうに向けて、「関、どう思う。私のことについて。」
私は考えもしないで、「もちろん土地企画局だよ。これは楊斌がお前や私の前で何度もいったことだろう。さっきはなぜ自分の気持ちを言わなかったの。」と答えた。
王諾は素直に笑って、「私はもう少しみんなの意見を聞いて、考えたいと思うけど。職位はやっぱり楊にまかせよう。」と答えた。
みんなは続々と会議室に戻り、続きをはじめた。
翁永曦は「何か問題はないのかもうちょっと話そう。お金のことは私が楊斌にできるだけ早く配ろうと言うから。」といった。
佟連発は「喬が来なかったけど、どうする。」
翁永曦は「喬勝利は多分特別区建設指揮だろう。楊はまだはっきり言ってない。」と答えた。
「それじゃ、準備委員会のメンバーはどんな人がいるか。」と佟連発がまた聞いた。
「楊、馬寧、佟院長、私、周放生、王諾、王恵東、それに喬だろう。あわせて8人だ。」と翁永曦が答えた。
「関先生は。」と王諾が聞いた。
「楊からは関のことを聞いてないけど。」と翁永曦は言ったい。
 このとき、楊斌は外国記者の応対が終わって四階の会議室に戻った。腰掛けてから、「人事についての基本的な手配はもう決めたか。」と聞いた。
「周放生は財政局を担当する。」と翁永曦が答えた。
「いいだろう。周が特別区で財政を担当したら私はほっとした。」と楊斌が首肯した。
「王恵東はスポークスマンや外事をかねてどうだ。」と翁永曦が聞いた。
「そうか。外事もか。」と聞いた。そのあとは続けて話さなかった。が、在席の人にはわかる。王恵東が外事を担当するのは楊斌は前に知らなかった。
それは馬寧の提案だ。馬寧は楊に王恵東がアメリカに留学したことがあって、英語をぺらぺらしゃべれるし、反応も早いし、それに、スポークスマンは主に外国記者を対象にするのだと極力進めた。楊はこのことについて、すでに首肯したが、外事もかねるのは知らなかった。だから、翁永曦が王が外事もかねると紹介したとき、楊斌は無意識に「そうか。外事もか。」と漏らしたのだ。それに、周放生や李粛は王恵東を事務局、つまり特別区事務局主任に勧めること自体に対し、楊斌は絶対承知しないだろうと思う。当日、翁永曦とごいを打つとき、ついでにこのことに触れたが、翁永曦も承知しない顔を見せた、実は、翁が事務局主任を担当するのは楊斌もとっくに知っていることだと思う。
 翁永曦が楊斌に王諾の手配を紹介するとき、二つの職位、つまり港か土地企画局かを言うとき、王諾は意見を示さなかった。
 楊斌はすぐ「王院長にはやはり企画局をお願いする。」といった。
楊斌が決定的なことを言ったので、王諾はしかたがなく「じゃ、楊斌のいうとおりにする。」と答えた。
 王諾が特別区土地企画局局長であることはこれで内定した。
楊斌は顔を向け、李粛に「李粛、私としては、お前は特別区政府で職位より会社をやったらどうだ。」といった。
李粛は「わかった。会社をやろう。」と答えた。 
楊斌が席を立ち、「みんな、お昼は私のところで食べよう。何かあったら相談もできるから。」と提案した。
それで、新義州特別区準備委員会の第一回の会議はこれで終わった。④
私たちが続々と皇宮を降りるとき、国内外の記者が楊斌を見かけたら、すぐ押し寄せて、質問したり、写真を取ったりした。そのとき、用意してくれた汽車が次々と来たので、人々はそれぞれの車に乗った。楊斌が広州の「南風窓」の記者袁方にとめられ、質問をうけた光景を見た。外国の記者が押し寄せるのをみたのだろう、楊斌は「南風窓」の記者を彼のベンツに乗せて、質問に答えた。が、その記者に特別区準備委員会の第一回会議が終わったことは伝えたが、詳細については触れなかった。
夜、楊斌や彼の顧問らは沈陽の有名な朝鮮レストランのオナーに誘われ、応じた。宴会中、レストランのオナーや朝鮮人のウェーター、お客さんが中国や朝鮮の歌や踊りなどを演じて、とてもにぎやかだった。途中、私はトイレにいくとき、翁永曦もついてきた。人のいないところで、私にこういった。「楊会長は7日に韓国に、9日に日本へといくつもりだ。私、馬寧や周翔も行く。関さんも一緒にどうだと聞いて、楊斌は承知した。ちょっと準備をして。パスポートは周翔に渡して、彼に韓国や日本への手続きをしてもらう。」といってくれた。
私はうなずいた。
翌日、周翔は私のパスポートをもらって、韓国や日本に訪問する人の手続きをする。後で聞いたが、赤星義春は日本で、楊斌ら一行の入国手続きをするため、自ら日本外務省関係者に頼んだそうだ。残念ながら、今度の韓国や日本への訪問はうまくいかなかった。
赤星義春は新義州日本総代表に任命された。9月30日午前10時、楊斌は新義州特別区長官として正式に彼の日本人の友人の赤星義春を招待した。
ここではまず簡単に赤星義春と楊斌の知り合ったことを紹介する。赤星さんと楊斌が知り合ったのは偶然のきっかけによるものだった。
001年12月24日、赤星さんは中国の広州に赴き、広州市の市長とある投資プロジェクトについて議論をした。会議の休みのとき、香港の友達は赤星さんに楊斌のことにふれ、楊斌は中国第二位の資本家で、とても将来性のある若い企業家だと言った。赤星義春は24日会議が終わって、25日に日本に帰って、26日は東京で楊斌と会うつもりだった。

楊斌との知り合ったことについて、赤星さんはその後私にこういった。「紹介によると、とても将来性のある若い企業家なら、私もたいへん興味を持っています。業務はもともとベンチャー投資ですから、本当に会いたかったです。弊社は日本で唯一の中国の未公開上場会社に投資した企業です。楊さんは専用機で私に会いに来ました。そんなに簡単な過程です。」。日本「中国創業投資株式会社」の社長の赤星義春は楊斌に新義州日本総代表と任命された。(写真は赤星義春が提供したものだ。)
楊斌はなぜ日本に赤星義春に会いに行ったのだろう。このことについて、赤星義春はこういった。「楊斌さんは農業会社の花、野菜などを日本市場に進出させるために、今回は前期考察で、家族の方々も一緒に来ましたが、楊斌さんは彼らを一流ホテルのプレジデントルームに手配しました。私たち三人、私、香港の友達、楊さんは熱海で温泉に入りました。初対面の印象としては、彼は田舎風で、正直で、付き合いやすいひとです。彼は興味深そうに私の話を聞いてくれました。とにかく、楊斌の特別な雰囲気はとても印象的でした。」
楊斌が東京に泊まるのはただの1日間だけだったが、楊斌は赤星にとても深い印象を残した。それに、その二人は仲のいい友達になった。赤星はこうもいった。
「楊斌さんは温泉がすきそうで、翌日のあさ温泉に入るとき、このホテルはいくらで買えるかと聞いたんです。そのホテルは熱海最大のホテルで、百万石といいます。たぶん温泉がすきで、それを日本での迎賓館としたいだろうと思います。とにかく、私は今は買う必要がなく、2、3年待ったほうがいいと伝えました。ただの一晩に過ぎませんが、私たちは仲のいい友達になれました。その後、彼は何度も「沈陽にぜひ来てください。」と誘ってくれました。その後は専用機で帰国しました。」
3ヶ月後、2002年3月8日、赤星義春さんは飛行機で沈陽に着いた。楊斌の接待局の周翔主任は空港まで赤星さんを迎えに行った。お客さんに対する歓迎の意を表すため、楊斌は最新型の白いロングベンツやロールスロイスを使った。車が規模の大きいオランダ村に入るとき、この日本のお客さんは実に驚かされた。
楊斌はオランダ女王の王宮に真似た欧亜会社本店ビルで彼のお客さんを待っている。
「そこで、楊会長は微笑んで私たちを迎えました。私と同行の者は日本で野菜を販売する大手会社の担当者です。その人は花に関する商売をしたいようなので、楊斌さんに紹介しました。長時間にわたる会談が終わって、周翔がそばにいてオランダ村を見学しました。あそこで楊会長がオランダで学んだクラシック農業を中国現代企業に応用する足跡をこの目で見ました。それに、なんと大きい規模です。」
「夜、私たちはオランダ村のガラスガーデンで盛大な歓迎を受けました。楊会長は自らマイクを持って私を誘いました。これはわれわれ日本人にとってはとても引き受けられないことです。楊斌さんの心遣いは彼の事業が成功したことの保証です。ガーデンレストランで、鳥がさえずり、花のいいにおいが漂っていて、さなかたちも愉快そうに楽しんでいます。釣りをしたくてしょうがありません。」
「宴会の最中に、楊会長は自制のマップを持ち出して、これから大事な話しがあるんで、このことはとても重要で、正式に発表する前に、内緒にしてほしいといいました。北朝鮮は新義州で特別行政区、または経済特別区を設置しようとして、私は行政長官に任命されたといいました。この突然のことは、正直に言うと、私を驚かせました。同時に、このことの重さにも驚きました。鴨緑江と隔たった中国丹東の向かい側にあるのは北朝鮮の領土です。特別行政区といえば、私が真っ先に思ったのは香港、経済特別区深圳のことです。どうであれすごいことじゃないですか。その北朝鮮はもうここまで来ましたか。」
「楊会長はそれに関して、金正日はすでに北朝鮮海域の漁労権を私に渡して、魚類を日本に売ってもいいし、とくにかに、ひらめ、河豚などはたくさんあるので、日本の大手会社と提携したくて、紹介してくれないかと言いました。私はその場で承知しました。なぜなら、日本の近海ではもう魚はないからです。」
赤星義春さんは彼が初めてオランダ村を訪ねたときのことをこう紹介してくれた。
赤星が二回目オランダ村に来たのは5月14日で、当時私がちょうどオランダ村に住んでいたときだった。それは筆者が初めて赤星さんに会ったときだ。高くない背丈に対し、丈夫な体の持ち主だ。楊斌みたいな大きいおなかも持っている。お二人はとても似ていて、ただ赤星さんは八の字形の眉がある。
今度赤星さんが連れてきたのは福岡魚類市場や西日本魚類市場の企業家だ。赤星さんは彼らを楊斌に紹介し、朝鮮海域での魚類の漁労についての販売協力を求める予定だ。2日間後、赤星さんは日本での最大の水産会社「マルハ」(旧大洋漁業)を楊斌に紹介した。
楊斌は日本からの客と魚の種類、出港証明、運輸方法、包装、生魚、冷凍などの問題について詳しく話をした。
日本近海で、大量の漁労のため、魚が急速に減り、東京最大の魚市場「筑地」に出回る魚の数や品種は年ごとに減少しつつある。そのため、日本の商人は朝鮮海域で捕れた魚に対し、たいへん興味や期待を持っているわけだ。
2002年6月27日、海産物の冷凍や加工についてもっと商談を進めようとして、赤星さんは丹東で海産物加工工場を見学した。赤星さんは供の欧亜会社作業員とともに、鴨緑江沿岸を散歩しながら、向かい側にある新義州の家屋、木や沿岸で散歩している朝鮮人を珍しがった。特に、鴨緑江鉄橋を面白がり、中国や朝鮮の間には緊張感のかわりに平和の雰囲気が漂っていると感嘆した。その後、彼らは車で沈陽に戻った。
夜、楊斌はガラス温室ガーデンで宴会を設け、赤星さんや韓国の水産会社のお客さんを招待した。筆者は周翔と一緒に赤星さんと話をしたりしている。そこで、楊斌が近づいて赤星さんにこう聞いた。
「あにき、今日丹東にいってどうだ。」
「丹東はとても美しい都市だな。対岸は新義州か。」
「そう。俺はこれからそこで特別区長官をやる。あにき、新義州に対する考えを聞かせてもらおう。」
赤星はこう答えた。「新義州特別行政区をおおやけにするのは早いほうがいいと思う。それには4つのメリットがある。1、北朝鮮に対するアメリカ人の印象は大きく変わる。2、朝鮮の中国への依頼感が強まる。3、東北アジアへの貢献のため、楊さんはもしかしてノーベル賞をもらえるかも。4、もちろん、これは金正日が世界にフレックスを表し、すべての問題も解決できるということかもしれないが。…」
楊斌は静かに聴いている。
2002年8月20日、赤星義春は再び沈陽に戻った。そのとき、楊斌はちょうど香港やマカオで出張している。赤星さんがオランダ村に着いたときいたら、途中で専用機で戻った。このことを聞いて、赤星義春はとても感動して、わざわざ沈陽桃仙空港へ楊斌を迎えにいった。
赤星さんはこのことに言及するとき、こういってくれた。「楊斌はいつもの微笑みで専用機から降りました。兄貴。彼はいつも私のことをこうよんでいます。二人の写真を見ると、確かに似ているんだなって思います。ほかの日本人からも私たちが似ていると言われています。楊会長とともに帰ってきたのはマカオのばくち業界のボスやその人の家族です。」
今度赤星さんが沈陽に来たのは楊斌が薦めた結果だ。彼は赤星さんにオランダ村大通り両側の商業家屋を紹介し、そこを世界有名飲食店やブランド専門店にしようと考えて、赤星さんの意見を聞きたいといった。それに、赤星さんに日本の業者を推薦してほしい。赤星さんは一番有名な日本レストラン社長と知り合ったので、快く引き受けた。
「オランダ村中部でゴルフ練習場や十八穴ゴルフクラブの建設を提案しました。楊さんはたいへん興味を持って、それですぐ土地を見に行きました。土地の面積はとても大きいです。そこではもともと楊さんらは3万人収納の温水プール、もうひとつのゴルフクラブを立てようとしました。彼らもたいへん興味があって、今度はいつ来るかと私に聞きました。それに、早く契約を結びたくて、私に早く来てほしいです。」
9月12日、赤星義春さんはゴルフ練習場や十八穴ゴルフクラブの設計図を持って、友達のゴルフ専門家である飯田康夫と沈陽に来た。
「だが、楊さんは北朝鮮の金正日に緊急呼ばれて、いませんでした。新義州特別区の発表がもうすぐだと感じました。(実はこの日に新義州特別行政区基本法が通過された。)」
 赤星さんはわざわざ苦労して友達を連れて沈陽に来たが、楊斌に会えなかった。が、残念ながら、赤星さんは内心の喜びを抑えきれず、以上のようにいった。
 赤星さんは9月28日の朝、新聞から楊斌がすでに沈陽に帰ったことを知った。東京の各大手新聞社は次々日本記者が沈陽から送った報道を載せたのだから。それは「新義州特別区長官の楊斌は沈陽でニュース発表会を開き、発表会で楊長官は「新義州をビザ免除で開放」と発表した。」
「この日がやっと来ました。私は喜びを抑えきれずすぐ楊長官と連絡を取りました。すぐきてほしいという返事でした。それで、私は急いで沈陽に駆けつけました。」赤星さんはその後こう教えた。
赤星さんは東京から大連へ、大連から沈陽へと駆けつけた。オランダ村に着いたことはすでに深夜だった。周翔が接待に応じ、すぐ楊斌と会うかどうか聞いた。赤星さんはお邪魔するのはよくないと思い、周の好意を婉曲に断った。
9月29日、楊斌は新義州特別区準備委員会のメンバーを集め、第一回の会議の準備をすすめたので、毎日目が回るほど忙しかった。赤星さんにかまう暇もなかった。それで、楊斌は最後のお客さんを見送ったあと、彼の日本人の友達を招待した。
この件について、赤星さんはこう話した。「周翔の特別な手配で、私はその日楊長官にあった最後のお客さんです。会ったとき、兄貴は私を抱きしめ、すぐ私の腹につきました。これは私たちの感情の表しです。彼は疲れたが、横になってもいいかと聞きました。大丈夫だと私は答えました。それで、彼は横になってマッサージをし始めました。それなら、私は安心できるので、とてもうれしかったです。それでも、私たちは新義州のインフラ、資金導入について1時間にわたって話をしました。そのうち、楊さんは本当に疲れているのに気づき、翌日のあさ会議をやろうと決めました。」
楊斌は30日の朝、赤星さんとどうやって日本から資金を導入するかについて詳しく検討した。赤星さんは「中国創業投資株式会社」の代表取締役なので、投資家とは仲のいい人間関係を築いたのだ。新義州特別区の活性化には、額の大きい資金が必要だ。赤星さんはとりあえず額の少なくない無利息ローンを楊斌に提供し、「兄貴」の新義州特別区での活動を支えると約束した。
楊斌は赤星義春さんを新義州日本総代表と同時に、総領事に任命した。赤星さんはもちろん喜んでいる。これは二人が任命書をともに持って一緒に写真をとった。
「頑張ろう。新義州にはきっとあなたの天地があるのだ。」と楊斌は言った。
 赤星さんはうなずいた。
 「心の中ではきっと頑張ると言いました。」と赤星さんはこういった。
 楊斌は10月7日に韓国に、10月9日に日本に行くといった。それに、日本に行く前に日本企業家や投資家との会談を事前に手配してくれませんかと赤星さんに聞いた。
 「それなら、約束するしかありません。」
 その後、赤星さんはこういってくれた。
「日本で小泉首相に会わせようとしたが、手続きはそれほど簡単なことではありません。だが、やるしかありません。外務省での小泉首相と関係のある人に協調するようと頼んだ。」
 楊斌はまた赤星さんにこう言った。彼は「東北アジアの平和のために新義州長官をやるのだ。しかし、あらゆるメディアはかれのこの考えをそのまま報道しなかったのはとても残念だ。」
赤星は「日本に来る前に、まず日本テレビ局の取材に応じ、ありのままの考えを報道させればいいじゃないか」と提案した。
楊斌は喜んで引き受けた。人が着く前に、世論が先に行うってことだ。
それは赤星義春さんを困らせた。かれは直ちに日本のテレビ局を連絡を取って、10月5日に沈陽オランダ村で独自取材を楊斌に行うことになった。
たくさんのことをやらなければならないので、赤星さんは10月1日に急いで日本に帰った。この日、韓国のテレビ局は楊斌特別区長官が金翰均を新義州韓国総代表に任命する様子を中継で報道した。それについて、日本のNHKも生放送をした。
「夕方は風が強かったので、成田空港に着陸するのが2時間も遅れました。飛行機を降りたら、私はすぐ車で頼んでだ外務省の友達のところに行きました。その友達と楊斌の日本への訪問について相談し、自分はすでに楊長官に新義州日本総代表に任命されたと教えました。彼はその事を聞いて、お祝いをしてくれました。私たちはビールで乾杯しました。夜の8時ごろ、周翔に電話をかけたら、楊長官は日本に行かないと無気力な声での返事を受けました。そのことで、私は不安になりました。今まで、苦労してかろうじて沈陽領事館に日本へのビザを下してもらったのに、いったい何が起こったんだろう。」
日本「朝日新聞」は楊斌が4日に新義州に行く計画は取り消しになるかもしれないという報道をした。「香港商報」は「楊斌は無限に訪問を後にする」というのをタイトルに次のように報道した。「9月27日楊斌が発表した10月7日の韓国に金花産業株式、世界韓国企業協会への訪問、それに10月9日の日本中国ベンチャー投資会社社長である赤星義春の要請に応じ、日本への訪問や、伊藤忠商社の知り合いとの会談、これらすべての計画は後にする。楊斌は、今新義州の塀の問題がより大事で、日本や韓国に行くのはそのあとのことだと言った。」赤星義春は日本にいるから、もちろん楊斌がなぜ韓国や日本に行かない理由は知らない。それに、本当のことを知る人はとても少ない。
10月4日、新義州日本総代表赤星義春さんは東京のテレビや新聞を通して、4日に朝楊斌が警察に連れ去られたことを知った。
 赤星さんからの私への手紙のなかで、「楊長官が公安部門に連れていかれました。私は頭が空っぽになりました。楊斌さん、かわいそうだ。いったい何があったんだろう。」と悔しい気持ちがあふれている。⑤
楊斌が「ニューヨークタイムズ」「経済学者」の記者を招待し、取材に応じるときの談話ドキュメンタリーがある。9月30日、私たちは丹東国境守備所がすでに知らせを受けたといううわさが耳に入った。
10月1日の国慶節に、私は王諾、楊大勇弁護士らとオランダ村からのサンタナに乗って、朝ごはんを食べに行った。別荘から海牙ホテルまでは1000メートルぐらいの距離しかない。ホテルの道端で走ったら、パトロールにとめられた。「検査を受けなさい。」といわれて、私たちはともに唖然とした。警察官は私たちを下ろさないで、ただ車の中をのぞいただけで、トランクを運転手に開けてもらって、ちらっと見ただけで行ってしまった。
ホテルのレストラン客室に着いて、腰掛けてまもなく、喬勝利、馬寧、王恵東が着いた。みんなは検査のことについていろいろと話したが、誰も検査を受けなかったことは確かだった。車を降りされたのさえなかった。ただトランクを見たのだ。いったいどういうことだ。そのとき、楊斌の顧問たちもわからないようだ。
10月2日、オランダ村にはよりたくさんのパトロールが入ってきた。オランダ村から出た車はどの車でも検査を受けた。なんかいやな予感がしてきた。
10月3日、パトロールが急に増えてきて、楊斌の別荘A9を囲む状態になった。これに対し、楊斌はこう解釈した。「私が新義州特別区長官で、朝鮮副総理レベル相当なので、警察の保護を受けるのも当然だろう。」

韓国連合通信社記者洪徳が楊斌に取材した。(撮影 関山。)
楊斌は記者たちに対し、そのことについてこう答えたが、心の中では緊張しているのだ。私はずっと楊斌のそばにいて、彼が友達や記者に会うときも一緒なので、楊斌の目つき、表情、言うことからは彼の緊張感が感じられる。彼は馬寧、翁永曦、王恵東に聞いたが、「そんなのあるわけないでしょ。」や「あんた、今は特別区長官だからな。」という返事だった。だが、馬寧、翁永曦、王恵東はオランダ村や農業上場会社での楊斌のしたことを知らなかった。
当時、朝鮮のある官僚韓明哲がずっと楊斌の別荘で彼のそばにいて、また、いつでも沈陽駐在朝鮮領事館総領事やピョンヤン方面への連絡をしている。しかし、楊斌のあらゆる活動、たとえば、企業家や友達に会ったり、記者の取材に応じることは一切禁じられている。
9月27日のニュース発表会で、楊斌が「9月30日から、外国記者がビザ免除で新義州特別区に入れます」といったが、本当はそうではなかったので、たくさんの記者の不満を寄せた。特に、外国で主要な新聞、雑誌、テレビ局記者はすでにオランダ村に集まった。楊斌はしかたがなく単独会談を手配した。それは10月3日一日中を費やした。楊斌は彼の別荘でそれぞれアメリカ、イギリス、日本、韓国、香港など国内外の記者の取材に応じた。

イギリス「経済学者」の記者マイルスが楊斌に取材をした。右から一人目は王恵東だ。(撮影 関山)
しかし、読者の皆さんに紹介する価値のある会話はやはり楊斌がイギリス「経済学者」の記者マイルスや鳳凰衛星テレビ局の曾子墨との会話だと思う。マイルスが何度も朝鮮に行ったことがあるので、あそこについて一定の程度の理解があるし、それにイギリス「経済学者」は国際的に厳粛で、経済業界や企業界でも権威や影響力の持つ雑誌だし、マイルスの質問も厳しいながら、フレックスで、中立の立場だから。ここで、楊斌とマイルスの会話をそのまま次のように書こう。
マイルス:私が7月に朝鮮に訪問するとき、そこでは物価や賃金改革を行っているようです。特に、まず食料の価格が調整があって、物価もそれにともなって緩和され、賃金や為替レートも次々と調整が行われました。このことは朝鮮がすでに開放政策を実施していることの証ですか。
楊:朝鮮の農民はほとんど食糧の生産をしています。彼らが実施しているのはグループへの請負生産で、三戸や四戸を一つのグループとします。昔、朝鮮では、数十年不動の食糧統一購入や統一販売で、住民の食生活は完全に国が担当していました。昔の農民の食糧の購入価格は0.6から0.8朝鮮ドル/キログラムだったが、現在は3朝鮮ドルにまで上がりました。今年7月市場開放後、食糧の価格が30から40朝鮮ドル/キログラムなら、農民の食糧生産の積極性も高まると思います。食糧価格の開放につれ、物価も開放に向かっているので、人々も賃金の調整を迎えました。これは朝鮮が経済における改革の路に一歩踏み出したといえます。8月に、南北鉄道、大通りの工事開始や開通など、それに新義州特別区の建設、これらすべては朝鮮の対外開放の連発です。
マイルス:経済において、朝鮮新義州特別区はどうするつもりですか。
楊:羅津パイオニアの失敗はその地理的位置、単一な経済貿易区などによるものです。金将軍は羅津パイオニアの経験や教訓を吸い取ったので、新義州で特別行政区の建設という大胆なアイデアを提出したのです。新義州では、自由開放の政策を実施し、外国企業家に開放を任せ、長期的な土地賃貸を実施し、また、外国商人の投資や製品については自由化を実施します。
マイルス:外資誘致、インフラ、港建設、発電などには大量の資金が必要ですが、あわせてどのぐらいになりますか。
楊:国際慣例によると、1平方キロあたりの投資額は5億米ドルが必要です。新義州特別区企画の専門家はイギリスからのトップレベルの専門家です。中国では、今のところは1平方キロは2億元米ドルです。132平方キロだったら、100億米ドルが必要になります。道路、橋、水工場、汚水処理、ガスなどは特別区が投資し、国営化の路を歩みます。それに対し、電信や電力などは私有化を行います。第一次5カ年計画の間に、インフラ整備を完成させる予定です。
マイルス:国際金融支持なくても、できますか。
楊:企業家としての私は資本運営の重要性を知っています。美しく、現代化の都市にするにはたくさんのお金が必要です。しかし、私にはその能力を持っています。金将軍から権力や132平方キロの土地をいただきました。土地譲渡、債権、国連基金の20年から30年のインフラローンなどがあります。経済圏ではすでに広い人脈を作ったので、資本における支持は問題ありません。

イギリス「経済学者」の記者マイルスが楊斌に取材をした。(撮影 関山。)
マイルス:アメリカ政府から朝鮮へのローンが得られないとしたら、どうしますか。
楊:私の記憶が正しければ、アメリカ人のケイリーが今日ピョンヤンに着きます。
マイルス:アメリカ政府の関係者と連絡を取りましたか。
楊:まだです。
マイルス:特別区は誰が考えだしたアイデアですか。
楊:金正日将軍のアイデアです。今年の1月に教えてくれたのです。このような大きなことはほかに誰もできないじゃないですか。それに、普通のリーダができることでもありません。新義州特別区は中国みたいに対外開放を蛇口から実施します。プロセスがあります。
マイルス:中国のトップに声をかけましたか。彼らの意見はどうですか。
楊:私の企業は遼寧にあるので、遼寧省政府にしか通報しませんでした。遼寧は地方政府で、外交は国レベルの問題です。もし、10000億元の投資が特別区に入ったら、6000から7000億元が中国に来ます。まずは遼寧に入りますが、それは地域経済にもいいことです。
マイルス:今日はあれだけの警察がいて、ニュースには特に敏感なようです。彼らも外国記者について検査を行いましたが、それについて楊さんは心配していないですか。
楊:別に心配していません。新義州が特別区は江澤民のおっしゃった平和や発展に一致しています。私自身が新義州特別区の長官をやるのはお金のためではありません。お金があっても、戦争はだめで、平和や持続的な発展が必要だと思います。東アジアの平和の前提は東アジア各国が裕福になることです。朝鮮南北が一体となって、裕福となることです。朝鮮半島が裕福となれば誰も戦争をやろうとしなくなり、朝鮮と国際の交流も盛んになります。封鎖50年の社会主義国家が古い観念を捨て、新時代の要求にしたがって改革開放をやりながら、世界に向けて歩き出すことはまさに金将軍の希望を表しました。私はオランダ国籍です。ヨーロッパと朝鮮は外交関係を持っていて、うまくやっています。また、朝鮮と中国はとても強い絆で結ばれた国です。特に中国も朝鮮も社会主義国家で、資本主義の特別行政区が中に立っているので、中国の支持がなければ朝鮮は発展を遂げません。それに、中国がかならず朝鮮を支持すると信じています。毛澤東時代に築いた中朝友情、鄧小平時代の改革開放政策、江澤民出席の平和や発展はきっと新義州特別区の建設や発展に積極的な影響や支持になります。中国が少々考えを持っているかもしれないけど、きっとうまくいきます。
マイルス:どういうお考えですか。
楊:私は子供で、子供に対する母親の誤解があるが、あくまで彼女が母親で、私が子供です。私も北京へ行って、国家トップリーダと会って、自分の考え方を説明したいと思っています。基本法の中に特別区は政治をやってはいけないこと、朝鮮や中国に反する活動があってはいけないという内容があります。私本人にできることは力を入れてしたつもりです。
マイルス:新義州の当地移転の住民はどれぐらいいますか。それに、どこからお金を得ますか。
楊:合わせて50万人で、そのうち元都市住民の40%である20万人が残ります。移転は朝鮮政府の仕事で、2年間で移転を完成させる予定です。
マイルス:中国は深圳特別区を支持しています。香港の資金があそこに流れ、深圳の建設や発展に不可欠な役割を果たしました。新義州が特別区にもし朝鮮も世界銀行も支持しなければ、資金は大きな問題となります。もちろん、それは中国、日本、韓国が優待ローンを提供することを除いてのことですが。
楊:深圳が経済特別区なのに対し、新義州は完全自由化の行政特別区です。もしわれわれが優れた条件を作り、低税率を策定すれば、世界の資本はここに来ると思います。われわれも積極的に日本、韓国と関係を保つようにします。中国といえば、中国政府がまだ意見を発表していないので、われわれはその意見を待っています。
マイルス:税収は朝鮮中央政府に納めますか。中央政府は何か得しませんか。
楊:国民からもらったものは国民に使うということです。金正日将軍が特別区をやる目的は経済上の利益ではなく、政治にあります。国際情勢の急激な変化、アメリカによる朝鮮への封鎖や制裁、長年連続の自然災害、これらは朝鮮を窮屈な境地に追い込みました。金将軍が朝鮮の官僚に古い考え方を捨てて、国際や国内の新たな情勢に従って、「革新」や「創造」をしてほしいです。つまり、彼らは希望を望み、世界の基準と合わせたいということです。金将軍はオープンなリーダーです。新義州特別区は短期間では朝鮮に大きな利益をもたらしませんが、大勢の朝鮮の青年が特別区で育てられ、将来は特別区を拡大し、先進の経験を世間の人に広げることになります。
マイルス:楊さんの言ってることはわかってます。しかし、もし大部分が社会主義スタイルを採用したら、小さな特別区があっても、影響はそれほどおおきくはないと思いますが。
楊:鉱夫が地下で半年も生活してきて、急に地上に入ったら、すぐ適応できるはずがありません。朝鮮が50年もの封鎖を経てきたから、すべての朝鮮国民がすぐ適応するとは考えられません。過程が必要なのです。
マイルス:最近は楊さんが税未納で、税務局の調査を受けているというような報道がありますが、いったいどういうことでしょうか。
楊:われわれ欧亜会社事務ビルの正門のところの壁に、納税先進会社という表彰の証があります。私は沈陽税務居とひとつの協定があります。つまり、毎年の定められた時間帯に税を納めるという内容で、今年は10月12日です。私は税をもらしたことがありません。
マイルス:私は合わせて5回もピョンヤンに行ったことがあります。1992年から2002年までの間です。朝鮮が大きく変わってきていて、朝鮮の国民も考え方では大きく変わっていると思います。
楊:私は去年のはじめごろ朝鮮に行ってから、今まで何度もあそこへ行ってきました。それに、いろんなところにも行きました。あそこの変化が激しくなり、人民もペースを速めたような気がします。
マイルス:ネットで見たんですけど、オランダでは、楊さんは政治避難を通して定住を手に入れたという報道がありますけど。
楊:在留を申請することは、当時の中国からオランダに留学する人の最初の考えだと思います。それは皆さんにも理解してほしいです。最後、言いたいのは、新義州特別区の設立は東北アジア冷戦の終わりや世界に向けて踏み出した朝鮮の歩みを表します。それは平和や発展の大きな傾向ともいえます。私本人は平和の使者になりたいです。
楊斌がかれの別荘で国内外の記者を招待するときは特別区準備委員会のスポークスマンの王恵東や私がついています。私は楊斌の伝記作家として、楊斌に誘われたため、彼らの詳細な談話内容を記録することができます。
楊斌はイギリス「経済学者」のマイルスを招待したあと、続いてアメリカ「ニューヨークタイムズ」、韓国「連合新聞通信社」記者の取材に応じた。韓国記者の質問はとても簡単だ。主に韓国の企業家が新義州特別区で投資できるかどうか、どんな優待政策があるか、特別区に出入りのビザのこと、特別区のインフラや外資誘致などのような問題だ。一言で言うと、韓国企業家が関心の持つ投資問題だ。ありふれた問題なので、ここでは楊斌と韓国「連合新聞通信社」との談話の内容は載せないことにした。
しかし、楊斌とアメリカ「ニューヨークタイムズ」の上海駐在社長の談話は独特だ。このアメリカ人が「孔周」というオリジナルな名前をつけたように独特な内容だ。ここで、読者の皆さんの参考として一部の内容をここに載せる。
孔:どうやって朝鮮のことを知ったのですか。
楊:小さいとき、教科書を通じて朝鮮という国を知りましたが、去年はじめて朝鮮をこの目で見ることができました。ピョンヤンの環境はとても美しく、きれいで、気持ちいいところで、どのヨーロッパの都市よりもきれいだと思います。朝鮮の官僚の考えはオープンで、外の世界にも触れているし、外の世界の基準にも合わせたいようです。それで、外国の雑誌や新聞の紹介する朝鮮のことは私が見たのとずいぶん違うと気づきました。私は農業をやる人で、毎月朝鮮へ1回か2回は行っています。朝鮮で農業の考察をやりながら、中国の温室をそこに導入し、朝鮮人民が冬でも新鮮な野菜が食べられるようにしたいです。
朝鮮の果物、花類の品種がよくなかったら、外国の優秀な品種をそこに導入し彼らを助けようとしました。朝鮮では、丘陵が多いのに対し、平原が少ないです。私は朝鮮の現代農業に力をいれ、朝鮮の製品が日本や韓国に進出できるように助けてきました。なぜなら、日本や韓国は大きな市場だからです。朝鮮を助けようとすることは会社の人や親戚に理解してもらえませんでした。そのとき、鄧小平の対外開放政策で私はヨーロッパに行けて、オランダに留学し、その後中国に帰って企業をやり始めました。今、私はお金を持つようになっても、朝鮮半島の平和を望んでいます。江澤民主席は平和や発展を主張しています。世界三大の不安定な地域があります。アジアでは朝鮮半島です。朝鮮には平和や経済の発展が必要です。私自身は朝鮮半島のためなら何か貢献をしたいです。朝鮮にもっと先進の農業を知ってもらうために、微力ながら力を入れたいだけで、特別区長官なんか思っても見ませんでした。
金正日将軍が私に特別区長官というのを託し、朝鮮人民が私を選んだのです。私は朝鮮の開放のために自分の人生の後半をささげたいです。
孔:韓国や日本の企業家も朝鮮で大活躍したいようですが、彼らに朝鮮は機会を与えませんでした。だが、なぜ楊さんが選ばれたのですか。
楊:私は朝鮮人民を理解できるのではないでしょうか。朝鮮に行ったその日から、私は心を込めて彼らを支持してきています。この2年間、私は食料、缶詰、食品などを寄付したり、子供たちに車や船での粉ミルク、ハンバーグやチョコレートを送ったりしてきました。朝鮮の農業施設の建設に手伝ったり、冬でも新鮮な野菜が食べられるようにしています。それに、全国にも広げたいと考えています。朝鮮の人々と感情が生まれたことは金将軍が見たので、この特別区を私に渡したのです。これは歴史的、現実上のいろいろな事情によって、私を選びました。
孔:金将軍が始めて楊さんと会うのはいつですか。

「ニューヨークタイムズ」記者孔周、範文欣が楊斌に取材をしているところだ。左から一番目は社長アシスタントの範文欣で、二番目は上海支店社長の孔周だ。(撮影 関山)
楊:それは秘密です。神秘的な二人が神秘的な特別区を創造したという人もいますけど。
孔:楊さん個人は新義州特別区に引っ越しますか。
楊:宣誓のあの日から、私は人生の後半を新義州特別区に渡したのです。特別区は周辺たくさんの国の利益に結びますが、私自身は公正、公平、効率的かつ清廉に仕事をすると決意しました。
私は特別区長官の名のもとで、言いたいことがあります。
朝鮮人民は平和を望んでいます。朝鮮には数え切れないほどの侵略の歴史を持っています。1905年から1945年まで、日本侵略者が朝鮮半島を侵略したため、どれだけの人が日本の刀や鞭の下で死んだのだろう。南北戦争で、数百万人が死亡しました。世界が朝鮮人民に多くのぬくもりを与えてほしいです。朝鮮人民はきっとその気持ちを受け止めます。彼らは連続で何年間も自然災害をこうむって、まだ完全に衣食足りる生活ができません。朝鮮人民は200万トンの食糧に欠けています。私は朝鮮と世界各国の関係、それにアメリカとの関係の改善のために尽くしたいです。
孔:ブッシュの政策に何かコメントはありませんか。
楊;ブッシュの朝鮮に関する情報は確かではないと思います。今日ケリー国務官がピョンヤンに着きまして、朝米の関係の改善を望んでいるらしいです。ピョンヤンでの私の専用運転手さんはオルブラフトの運転手をやっていた朝鮮人です。オルブラフトは朝米の関係の改善を求めている人です。金将軍が真心で朝米関係の改善に向けているのは朝鮮人民の利益に適応するものだと思います。人民の利益は一番です。
孔:楊さんがこのごろ韓国や日本に訪問すると聞いていますが、アメリカに行くつもりはありませんか。
楊:あります。明日は新義州に行きますから、孔さんらは丹東に行ってみてください。あそこでは、200万人が新義州の開放の日を望んでいます。新義州が特別区をやるということで、初めて利益を得るのは中国で、遼寧や丹東です。
孔:新義州特別区でどんな職務を勤めていますか。
楊:特別区長官です。ビザの発行も担当しています。
孔:海外の会社はこれから投資できますか。
楊:10月末からは大丈夫です。韓国、日本、台湾、香港、アメリカからなら、誰でも投資できます。ばくち業への投資も容認します。多くの投資をしてほしいです。アメリカの昔の兵士が新義州へ来るのも歓迎します。
孔:新義州特別区基本法は香港のと同じですか。
楊:基本法はヨーロッパやアジアの法律を参考に、もちろん香港基本法も参考に入れました。ほかの法律はすぐ出ます。新義州特別区基本法では、特別区長官の権力は香港の行政長官よりも大きいし、法律の自由の度合いでは、公平や人なら誰でも平等だという点を強調します。アメリカの法律も参考しました。
新義州特別区は一枚の白い紙みたいなもので、もっとも美しい絵を書き出します。特別区の税率は世界で一番低いし、人材政策もきっと世界各国のエリートたちをひきつけると思います。あそこは小さい国連です。
孔:外国のたくさんのメディアに不満でもあるかと聞いていますが。
 
楊斌が「ニューヨークタイムズ」記者孔周の取材に応じている。(撮影 関山)
楊:たくさんの外国の記者は朝鮮に対し、偏見を抱いています。新義州特別区は羅津パイオニア失敗の教訓を吸収したし、金将軍も特別区に基本法権利を与えたし、それに朝鮮中央各部門、地方の関与を受けません。
私は9月25日朝鮮人民会議の副委員長で、朝鮮の第四の指導者の楊亨燮と会いました。食事のとき、暇なときは特別区に考察や指導をしに行ってくださいと頼みました。それで、ビザがないといけないんで、それは基本法が君に与えた権利で、私たちが守らなければならないと返事してくれました。それを聞いて、私はすごく感動しました。私は朝鮮人民に責任を持ち、特別区投資者に責任を持ちます。軍事、外交権以外の権利はもらいました。
孔:駐在軍隊はありませんか。
楊:特別区の経済発展を確保するため、駐在軍隊は島にいます。
孔:楊さんはオランダ国籍で、朝鮮国籍にも入りましたが、北京方面からの見方などは気にしていますか。
楊:高度な注意を払っています。支持してくれると信じています。外交部の章啓月は歓迎や支持の意を表しました。中国は私の母親なので、子供がいたずらをしたら、母親が怒るのも当然です。が、子供はいつまでも母親を理解できます。
孔:欧亜農業や税務問題はそれに影響が出ますか。
楊:欧亜農業は上場会社です。税務問題については沈陽と協議を結んで、10月12日に納めると約束しました。外資企業だから、もともとは免税ですが、今では免税などありえません。上場会社では、陳軍が突然辞表を出して離れました。僕はすでに李剛を農業会社の社長に任命しました。何か大きなことをやりたい人なら、彼のやりかたを理解してくれない人がいつもいます。50年もの封鎖の朝鮮のため、世界に向けて歩き出すドアを開けるため、なんにも後悔していません。
よい日を選んで新義州特別区で赴任します。いつでも歓迎いたします。
曾子墨が最後の楊斌に対する取材をする。
アメリカ「ニューヨークタイムズ」の記者孔周、範文欣の楊斌に対する取材が終わったら、われわれは客室から出てきた。「北京ガール」の曾子墨がすでに客室のソファーに腰掛けて、ほかの人と話をしているところを見た。
 楊斌は礼儀正しく孔周、範文欣を玄関のところまで送って、お客さんが行ってしまったのを見て、顔を向けて曾子墨に声をかけた。「いつ着いたか。」と友達っぽい関心を示した。
「着いたばかりだ。楊会長。」曾子墨が立っていった。彼女は楊斌を「特別区長官」とは呼ばないで、相変わらずもともとのように、気遣いことなく楊斌を呼んだ。
楊斌が近づいたら、座ってるひとがみんな立ち上がりました。客室には三つの白い皮製のソファーが大きいのと小さいのとあります。楊斌が大きいほうに座って、手でソファーをたたいて、曾子墨を誘った。曾子墨もまた仲のいい友達みたい楊のそばに座った。私は相変わらず楊斌がお客を招待する時のように、友達が譲ってくれた小さいソファーに腰掛けた。
「北京ガール」が私を目でとらえたとたん、礼儀よく立ち上がり、私と握手してから座った。「同郷人が同郷人に会ったな。」と私の一言で、彼女は笑った。
 曾子墨と一緒にきた鳳凰衛星テレビ局の女性の記者はもうひとつの小さいソファーに座った。曾は楊斌に彼女の同僚を紹介した。
 もう一人の男の撮影技師は撮影機をかけたり、レンズを設定したりすることに忙しい。楊斌の方に向けたら、またすぐ照明設備の準備に手がけていった。
 この三人は香港鳳凰衛星テレビ局の取材グループで、今まで曾子墨とともに朝鮮各地や新義州の取材から帰ったとたん、沈陽オランダ村によった。楊斌は朝鮮にいたとき、彼女が各地に困難なく取材できるように、朝鮮側にいろんな手配をしてもらった。話によると、これは近年来、唯一許された外国テレビ局の記者が広範囲にわたって見学や取材できる例だ。
「朝鮮での取材で、危険な目にあったと。」楊斌は何気なく聞いた。
「川を渡ろうとしたとき、大雨のため、洪水がでた。橋が壊されたので、私たちの車はそこで一歩も進めなくなった。その後、朝鮮の運転手さんが遠回りして、無事にできたのだ。」曾子墨は簡単に当時の状況を説明した。
私は鳳凰衛星テレビや新聞でそのような報道をみた。曾子墨らの取材の車が谷を渡っているとき、端が壊されて、車は前にも後にもいけない状況にあったとか。曾の紹介を聞いて、天気に恵まれていないことがわかった。驚かされただけで命の危険はなくてよかった。朝鮮の道路の悪さは私も体験したことがある。朝鮮の官僚たちとそれについて話したこともある。なぜ道路の整備をしないのかって。中国には「裕福になりたいなら、まずは道路の整備」という言葉がはやっている。だが、朝鮮はいま困難な時期にあって、数年連続の自然災害を経たから、まず解決に当たるのは「衣食足りる」ことだって言ってくれた。「道路の整備はします。将来、必ずします。それに高速道路も作ります。」とその官僚は私の肩をたたいてこういってくれた。
夜6時30分、曾子墨の取材が正式に始まった。ホールの人々も次々とほかの部屋、客室あるいは上に行った。私は相変わらずもとの小さいソファーに腰掛けて楊斌と曾子墨の談話を記録した。これが私の楊斌への最後の記録だ。私もありえない夢を見ていた。10月4日に楊斌一行と新義州特別区に行こうと。10月7日は楊斌、馬寧、翁らと一緒に韓国に行くというゆめ。韓国大統領金大中が楊斌一行と会うかもしれないというゆめ。それに、そのときの詳しい状況を記録したいと思っていたんだ。「10月9日、楊斌らと日本にいって、日本の企業家らと会う。赤星義春さんも日本で準備をしていた。朝日新聞方面も詳しい手配が入った。」
しかし、これらのすべては幻に過ぎない。一瞬でありうる現実を神話に変えて壊した。それとも、これはもともと神話で、残酷な現実の前で泡のように散らかって、とうとう破った。
ロビーで、明かりや鳳凰衛星テレビのかけた照明設備はともにつけられた。ロビーは昼のように明るくなった。
鳳凰衛星テレビの楊斌に対する取材が始まった。
曾:ピョンヤンから帰って、何か活動をしましたか。
楊:日本、台湾、アメリカの投資家は新義州特別区の設立に強い反応を示しました。中国は比較的に冷静ですが、新義州特別区の新たな考え方は中国共産党三代指導者の思想にあっていると思います。鄧小平の出した中国の開放改革路線で、中国が貧困から裕福になり、当分WTOにも加盟しました。中国はすでに完全に国際社会に融合したと思います。朝鮮は進んで開放をもとめ、国際の基準とあわせようとしたから、新義州特別区をやろうとしました。それはとてもいいことです。それも江澤民主席が去年APECで言ってた「平和と発展」のテーマにあっています。新義州特別区の開放は中国に50万人の就職機会をもたらしました。

2002年10月3日夜、香港鳳凰衛星テレビ局の番組司会者曾子墨が楊斌に取材をした。数時間後、つまり翌日の朝5時、楊斌は警察に連れて行かれた。撮影 関山
曾:中国側の冷静は何によるものですか。外交部スポークスマンは朝鮮新義州特別区については紹介したことはありますが、特別区長官の任命については言及しませんでした。
楊;私の企業は遼寧省ではもっとも大きい外資投資企業です。去年フォーブス雑誌が私を中国第二富豪に入れました。私はそれで多くの非難を受けました。中国では、貧しい人に同情し、富豪には同情しないものです。オランダ村がこれだけ大きくなっても、利益を得るのは人々で、私ではありません。今新義州特別区長官になって、39歳の若さなので、きっとたくさんの非難を受けるでしょう。子供が母親の非難を受けても、母親をうらんだりはしません。朝鮮で、トップレベルの談話に応じたとき、こういいました。私は朝鮮に嫁いだのです。朝鮮2300万の人民に忠実を果たさなければならないと同時に、私は中国人で、中国の主権、安全に対し、回避できない責任を持っています。
曾:どんな非難を受けましたか。
楊:沈陽の指導者が私からの電話に応じませんでした。なぜかはわかりませんが、誤解があるかもしれません。
曾:マイナス的な影響は出ましたか。
楊:ありません。経済学者やほかの学者は大丈夫だといっていました。
曾:中朝は具体的に両国関係においてどんな摩擦を持っていますか。楊さんはどうやって処理しますか。
楊:中朝関係には影響はでてはいけません。私と朝鮮はお嫁さんと姑の関係です。中朝関係、数十万の志願軍烈士、それらは大事な問題です。
曾:楊さんの身分に大変興味を持っている人がいます。驚いた身分の組み合わせだとか言う人もいますが。
楊:この問題について、前にも答えましたが、私は普通の中国人です。
曾:オランダ村の入り口や道路で、特別な保護を受けているようですが、どう考えていますか。
楊:別に問題ないと思います。それは中国政府が取った保護措置ですから。
曾:いったいなんでそれだけの人やパトロールが出ましたか。
楊:わかりません。
曾;韓国がもっとも興味や関心のもつことは何ですか。
楊;朝鮮側は韓国のビザを認めません。私は中国の台湾人民に対する方法で処理します。新義州特別区の国民の権利は誰でも平等です。
曾:特別区では、韓国人の担当する官僚はいますか。
楊:います。
曾:特別区に投資する人はいますか。
楊:数百人もいます。
曾;新義州が10年間でそれだけの資金を吸収するとは信じてもいいですか。
楊:世界資金はたくさんあります。投資家は機会を探しています。新義州こそ投資家の楽園です。特別区政府は世界各国の人材からなっています。低税率もあって、大量の企業家をひきつけます。
曾:アメリカはどういうふうな態度をとっていますか。
楊;歓迎の態度です。
曾:どうやってそのことがわかりますか。
楊:新義州特別区の成立発表後、アメリカは枢軸国という言い方をやめたし、ケリーもピョンヤンに訪問に行ったりしました。世界各国が朝鮮についてよく知らないようですが、みんなが朝鮮に行くことを歓迎します。9月24日、朝鮮最高会議委員長の金永南は私に特別区長官の証書を授けました。副委員長の楊亨燮は宴会で、楊さんのビザがないと僕は新義州にはいけないと言ってくれました。それを聞いて、私はとても感動しました。
曾:新義州特別区は朝鮮に新たなイメージを作ったと思います。欧亜農業が香港における株式は少しゆれています。もし、楊さんが特別区にCEOを担当したら、もっと大きな乱れはありませんか。
楊:欧亜農業の変動が正常ではありません。基金の持ち主の自信のなさ、メディアの操り、とくに上海「国際金融報」の無責任な報道で、記者はただ保安員に聞いただけででたらめ書いたことにかかわりがあります。
曾:新義州特別区長官になるため、大きな損をしたようですが、悔しくないですか。
楊:東北アジアの平和や発展に少しでできたら、死んでもかまいません。私の父は33歳で亡くなりました。私は平和を望み、そのためなら努力をおしみません。
曾;台湾のメディアのようですが、楊さんは朝鮮の金正日と親戚関係を持っていると言っていますが。
楊:そんなことはありません。
曾;9月30日からビザは不要だといっていましたが、なぜまだだめですか。
楊:基本法の権利によると、可能ですが、私にも間違いがあります。新義州はまだ塀はありません。臨時に塀を作っても2ヶ月はかかります。民主の指導者は間違いに対して、公開して間違いを認めます。
曾:塀が全部完成するまで待つということですか。 
楊:今度、新義州へ行くのはそのことのためです。早く解決したいと思います。
曾:丹東と新義州の間で、大きな橋を造ることについて、中朝は商談を始めていますが、いつ工事を開始しますか。
楊:来年になります。来年は遼寧省政府が工事建設を担当します。
曾;韓国では、韓国側はソウルから新義州までの無境界高速道路に投資するという報道があります。こんな重要な通路が韓国側の手に入れるんではないかと朝鮮は怖くないですか。
楊:この問題について、朝鮮側は解決します。

2002年10月3日夜8時、鳳凰衛星テレビ局の番組司会者曾子墨は沈陽オランダ村のA9別荘で最後の取材を行っている。撮影 関山
曾:この前、新義州に行ってきました。そこの住民は特別区の将来についてわからないようですが。
楊;新義州には50万人がいて、20万人を残して、ほかの30万人は南新義州に引っ越します。
曾:当地の人はいつになったらそのことを知りますか。
楊;明日(10月4日)新義州へ考察に行きます。10月25日に赴任する考えです。その日は50年前志願軍が鴨緑江をわたる日で、私たちは今日鴨緑江をわたって新義州を建設します。明日は具体的な問題について打ち合わせる予定です。
曾:10月25日前に、当地の人々に特別区の設立計画を教えますか。
楊:今度は主に特別区の企画の考察です。
曾:立法会議選挙や政府メンバーのリストはいつ発表しますか。
楊;当分は内部のことです。
曾:特別区住民の福祉は、将来どうなりますか。
楊:すべての国民が保険に入ります。教育は無料教育と有料教育とがあります。小さいころ、オーファンなら、コミュニテイで証明を出したら、学費の一部は免除となります。特別区の朝鮮住民は無料です。
曾:新義州に行ったとき、そこの住民は特別区のことについて何も知らないといおうとした表情ですが、金将軍の指示だったら、守るといいました。
楊;金将軍の命令があれば、全民は支持し、守ります。
曾:長官、筋によると、韓国や朝鮮では新たな変化があり、金大中は朝鮮の経済復旧に手伝うと表明したというのがありますが、それについてどう思いますか。
楊:新義州特別区の設立に韓国政府が歓迎の意を表し、韓国の国民も新義州に来る希望を表しました。
曾:韓国に行く目的は韓国政府や民間の支持にありますか。
楊:そうです。韓国はひとつの要因ですが、成功の決定的な要素ではありません。日本、台湾、香港など多くの企業家や資本家が新義州特別区で投資しようとしています。中国は外資誘致という役目を果たすことになります。
曾;アメリカが朝鮮枢軸国という言い方を取り消すことは新義州特別区の設立に関係がありますか。
楊:関係あると思います。アメリカは金正日将軍の決定をこの目で見てきました。
曾:世界銀行はなにか支持の活動をしますか。
楊:すると思います。香港やマカオのような特別区は国際的な経済性組織に入りました。われわれが有益なことをやっているから。
曾:アメリカは朝鮮と完全に関係よくなる前に、新義州特別区に対しては支持の態度を取るのでしょうか。
楊:支持すると信じています。
曾;欧亜会社が税の滞納があると香港のメディアが報道していますが。
楊:それは地方部門が遅延して収めてもいいと言いました。先日、ピョンヤンから帰ってから、収めるようにという知らせを受けました。それで、10月12日に全部納めると約束しました。
曾:それは楊さん個人に、それとも遼寧企業家に対するものですか。
楊:私個人に対することです。
曾:欧亜農業の株式が乱高下を経ています。新義州に行ったら、欧亜農業やオランダ村はどうしますか。
楊;沈陽オランダ村の不動産はすでにほかの人に頼みました。欧亜農業も新たなCEOを任命しました。それらはちゃんと手配します。なぜなら、僕の数十年間の心血だから。
曾子墨の楊斌に対する取材はこれで終わった。彼女は取材グループを連れて明日楊斌と新義州にいって、続いて追従報道をします。鳳凰衛星の明かりが暗くなってきている。
楊斌が立ち上がって、「今、フォーブス億番長者ランキングに入ったことを後悔しているな。」と曾に言った。
曾は驚いて楊斌を見つめ、何も言わなかった。撮影技師が特別区長官、新義州の背景に関する資料を取りたいといった。それで、楊斌は身近の人に朝鮮側が新たに描いた新義州特別区の地図、特別区長官任命書を取ってもらって、撮影技師に渡した。
楊斌は談話の時の暗い雰囲気を捨て、楽しそうに曾子墨に「曾さん、今晩は私のところでご飯食べよう。得意料理を作ってくるから。」といってから、台所に入った。

筆者は香港鳳凰衛星テレビ番組司会者の曾子墨とオランダ村楊斌のところで話をしたり、一緒に写真をとったりした。
今晩、曾子墨の取材の問題に対する楊斌の回答はとても簡潔で、暗い雰囲気を帯びていたことに気づいた。それは楊斌らしくない。外の警察やパトロールがどんどん増えていると伝えた人がいるからか。欧亜副総裁李剛は明日鴨緑江をわたれないかもとはっきり楊斌に教えたからか。接待所の主任の周翔も「かもな。」といってたからか。楊斌は事件の厳重性を認識した。それに、ロビーにいる人、親戚、友達、クラスメート、お客さんはみんな「何かが起こる。」という予感を抱いている。曾子墨まで、「いったいなんでそれだけの人やパトロールが出ましたか。」と聞いた。
曾子墨がソファーに座っているのを見て、この同郷人と話をした。国内のたくさんのテレビ局番組司会者は本を出版していて、楊澜もそうで、とても人気があると彼女に伝えた。「鳳凰衛星テレビでの取材記録を整理したらどうだ。」とアドバイスを出した。
「まだまだだ。1年か2年たてばのことだ。」と笑って返事してくれた。
「朝鮮における見聞を書いて、国内で出版したら、ぜひ私に企画や出版をやらせて。」とまだ薦めている。
 彼女は相変わらず笑っている。
私は誠意を持ってアドバイスをしたのだ。彼女が才能のある人で、文章を書くのが上手だと聞いた。残念ながら、彼女の文章を読んだことはない。(本の中で引用した曾子墨の文章は筆者がその後見たのだ。注釈:筆者)彼女は香港で財務経済の番組を担当し、財務経済の重要人物にもあったことがある。今度も朝鮮に行ってきたので、国内の読者が知りたいことがたくさんあるはずだ。
曾子墨の携帯がなった。香港鳳凰衛星テレビ局だ。ロビーや小さいロビーが人でにぎわっているのを見て、お手洗いに行って電話をかけなおした。その夜、香港鳳凰衛星テレビニュースでは曾子墨と鳳凰衛星テレビ局司会者の談話の内容が流され、楊斌が10月4日朝6時30分に沈陽からたち、9時ごろ鴨緑江をわたって新義州に着くという内容もあった。
楊斌が警察に連れていかれた経過
楊斌がエプロンをつけ、台所で自ら料理を作っている。勢いの強い火、油のいためる音、調理用具のぶつかりの音、それに楊斌の板についた腕はみんなの目をひきつけた。鳳凰テレビのカメラマンや私は楊斌が料理を作るときの多くの情景をレンズに収めた。楊斌がオランダについたばかりのころは、中国人のレストランでバイトをしていたので、料理の腕が磨かれた。楊斌の得意料理がテーブルに載せられたとき、色、味、においが全部備えてあり、みんなにほめられた。彼のトマトと肉団子のスープといったら、濃い色のスープ、白い肉団子、緑色の葱で、みんなの食欲を起こした。楊斌はテーブルに座って、人々の褒美や先を争う様子を見たら、微笑を浮べた。彼は絶えず曾子墨にいろいろと食べてもらいたいようだ。「北京ガール」曾子墨は相変わらず上品で、楊斌の家でいつも彼の得意料理を食べるときのように気遣いなく食べているのではない。

楊斌が自ら料理を作り、曾子墨のため彼の得意料理を作った。数時間後楊斌は警察に連れていかれた。(撮影 関山)
 この「最後の晩餐」で、テーブルのそばに座っているのは楊斌、曾子墨、鳳凰衛星テレビの記者二人、王諾、王恵東と私だ。
 食事が終わってから、曾子墨らが離れた。
私たちがロビーに戻ったとき、すでに人でいっぱいだ。楊斌の軍事学校のクラスメート陳弘、李鋼(楊斌の小学校時代の先生のだんなさん)、陸班(新たに赴任した執事)、徐寧(新しく赴任した警備)、周翔、朝鮮官僚韓明哲、劉殿輝(楊斌の秘書)、王諾がつれてきた港事務専門家二人、楊の第四のおばさんなどがいる。
 夜10時40分、一日中疲れたし、年の関係もあるから、ちょっと体力がもてないので、楊大勇を連れてA9を出て、自分の別荘に帰った。楊大勇は私と一緒に住んでいて、「世話をする」といった。帰りの途中、楊斌のA9住所から4,5メートルと遠くないところに、パトロール一台、車一台がとまっているのをみた。それは全部沈陽警察の車だ。曲がり角のところに、暴動防止の車が止まっていて、中に警察が座っている。私たちの車を止める気はないようだ。私たちの車がテニス球技館を通っているとき、あそこにも暴動防止の車が止まってて、前のヘッドライトがついているのを見た。ちょうど、この数台の車はA9を囲む姿勢になって、それにかなり近いようだ。
「関先生、なぜこれだけのパトロールが楊さんの別荘を囲んでいるか。」楊大勇がわからないような顔で私に聞いた。
 「わからない。」と事実を言った。
 私たちが別荘に帰ってまもなく、それぞれの部屋で休んだ。
寝てからまもなく、あわただしい電話の音が聞こえてきた。楊斌の別荘からだ。友達の一人が私の部屋に電話をかけ、「楊斌の別荘がすでに警察の人に囲まれた。大勢の警察が入り口前、窓の前、周辺にいた。誰一人出ようとしてもだめだ。こういう歴史的な瞬間、みるべきじゃないか。これからの伝記にも使えるでしょ。」と伝えてくれた。
ナイトテーブルに置いた時計を見て、朝1時30分だった。
「すぐ行く。」と答えた。
それで相手は携帯を切った。
早速服を着て、隣の部屋で楊大勇を呼び起こした。
「早く起きて。楊斌の別荘が警察に囲まれたんだぞ。誰も出入りはできない。」
この若い弁護士は目を大きく開いて、驚いて「どうした。いったいどうしたの。何かあったの。」と聞いた。
私はA9からの電話のことを一応話した。
彼はすぐ服を着て、私と一緒に別荘を出た。夜が真っ黒で、涼しい風でさっきまでの眠さは消え去った。私たちはあの人工小川に沿って、足のペースを速めた。テニス球技館のあたりまでいったら、前にパトロールが二台止まって、ヘッドライトが着いているのを見た。車を降りて歩いている警察もいる。入り口にもパトロールが止まっている。このようすじゃと、大通りから入るのは無理なようだ。そこで、別荘を数棟通って、テニス球技館の後に回った。楊斌のA9の前後や左右には全部パトロールがあって、それに、ヘッドライトや小さい明かりもともにつけてあり、ぼんやりと大勢の警察が周辺にいるのを見た。
「さあ、帰ろう。」と私は楊大勇に言った。
「どうしたの。」と彼は納得のいかないような顔だ。
「無駄だ。」と返事した。
彼も警察の場面を見た。A9あたりは昼のようだ。警察の影が揺れている。彼は足を止めた。
 「帰ろう。」彼を引いて帰った。
「そりゃ、大変だぞ。」私たちの別荘に帰ったら、彼がこういった。
私は答えないで、答えられない。
「お前は寝よう。何かあったら起こすから。」タバコをともし、客室のソファーに腰掛けてテレビをつけた。
楊大勇は上に上がって部屋に戻って寝た。
朝3時、彼を起こさずに一人で出て行った。さっきの路線に沿って、もう一回歩いた。警察やパトロールはまだそこだ。パトロールのヘッドラインはほとんどつけて、さっきよりも明るいような気がする。
別荘に折り返して寝るしかない。
どのぐらい寝たか覚えていない。その後電話がまたあわただしくなった。受話器を手にとった。相手は楊斌の軍事学校のクラスメートで、「関先生ですか。」と聞いた。
「はい、そうですけど。」と答えた。
「王家堂です。楊さんが5時10分に沈陽警察に連れていかれました。」と相手は言った。
時計を見て、もう10月4日朝6時10分になった。
「ほかに誰かを連れて行きましたか。」と聞いた。
「楊さん一人です。」と王家堂が言った。
「警察がまだそこにいますか。」とまた聞いた。
「警察やパトロールが全部行ってしまいました。」という返事を受けた。
「楊斌の別荘には誰がいますか。」とまた聞いた。
「大李鋼、陳弘、楊斌の第四のおばさん、それに私です。関先生に電話をしてって大李鋼に言われました。早くこっちに来てください。」と彼が言った。
 「わかりました。すぐ行きます。」と電話を切ったあと、考えてから、電話でほかの別荘にいた馬寧、喬勝利にも伝えた。
楊大勇を起こし、楊斌が朝5時10分に警察につれていかれて、警察やパトロールが全部いってしまったと伝えた。
「ほかの人は。」と彼は驚いた顔で私に聞いた。
「楊斌一人だけだ。」
私たちが別荘を出て、外はすでに明るくなってきた。正門の前の小川の中に、白鳥、黒白鳥が楽しそうに遊んでいる。
静かで、オランダ村には何も起こらなかったようだ。
楊斌の別荘についたころはちょうど6時30分だ。そのとき、そこで当番をやっている保安員の姿がなくなって、猟犬もいなくなった。別荘の前はからになった。
ホールには李鋼、王家堂、陳弘や楊斌の第四のおばさんしかいない。彼らは南京の人だ。楊斌の別荘で昨夜のことをこの目で見た陳弘は、昨夜から朝にかけて起こったことを教えてくれた。
「昨夜11時ごろ、韓国第二銀行の友利銀行の副総裁李鐘輝、次長黄圭勝、科長鄭俊文らが二台のロングベンツに乗って、楊さんの所に来た。あわせて8人で、うち6人が韓国人で、二人が中国人で、太いのとやせているのと。彼らは楊斌と新義州で投資のことについて話をしたいようだ。」
その二人の中国人は誰だ。その後知ったが、やせている人は沈陽鳳翔会社の取締役の孫鳳翔で、太いほうは許偉だ。孫鳳翔とは知り合いで、彼の会社に見学したこともある。彼は沈陽での有名な民営企業家で、主に不動産をやっている。韓国の企業家とも協力していて、韓国のたくさんの友達を持っている。彼は韓国銀行家を楊斌に紹介し、つれてあわせようとした。
陳弘がこういった。

 筆者と楊大勇がオランダ村で一緒にとった写真だ。
「楊斌がロビーで韓国からの客を招待している。11時半、私と李鋼が帰って寝たいと思ったが、ドアを開いたとたん警察にロビーまで押されて、出られなくなった。楊さんにも邪魔したくないから、ひっそりとそのことを楊斌の第四のおばさんや王恵東に伝えた。王恵東は楊さんを隣の食事どころに連れて、外はすでに警察に全面的に囲まれて、この別荘に出入りすることはできないから、韓国の客さんにこのことを知らせ、先に行ってもらおうかといった。楊斌は少しまとうといって、ロビーに戻って客さんとのやり取りを続けた。」
「夜中12時になって、みんないらいらしてきた。韓国の客さんと一緒に来た中国のデブ(許偉)はこのことを知って、公安局の局長とは知り合いだといって進んで外へ人を探しに行った。が、ドアを開いたとたん、警察に追い返されちゃった。それで、メッセージを紙に書いて、ドアを少しあいて警察に渡してもらおうとしたが、投げられた。」
「みんなが相談して、韓国の銀行代表に本当のことを教えた。外はすでに公安に封鎖され、出入りできなくなったと。韓国の銀行代表は聞いて、携帯で韓国領事館に電話をかけ、ここに閉ざされていることを伝えた。1時30分、外にドアをたたく音が聞こえた。トップ警察や省庁外事所所長、市外事所所長が来た。「どの人が韓国のお客さんですか。」と聞いたら、六名の韓国人が立ち上がって名乗った。中国人二人は韓国のお客さんと一緒に来たといった。それで、彼ら8人が出るのを許可された。」
韓国友利銀行家が楊斌の別荘に行ったことについて、その後孫鳳翔がこういってくれた。
「私は韓国SR開発会社と沈陽でたくさんの協力プロジェクトがあり、よく知り合った友達だ。SR会社が友利銀行とも協力関係がある。友利銀行は韓国での第二の銀行で、100あまりの大手企業と協力関係を持っている。楊斌が新義州特別区長官になってから、韓国のたくさんの企業家が何とかして新義州で投資を行いたいので、友利銀行にお願いをした。それで、友利銀行がSR会社を通じて私のところに来たわけだ。」
「これらの韓国銀行家は10月3日に北京について、飛行機に乗り換えて沈陽に着いたのだ。飛行機を降りるときはすでに夜10時30分になったので、直接車でオランダ村に向けて、11時ごろ楊斌の別荘に着いた。実は、オランダ村が警察に監視されたことは前に知ったが、韓国商人とは数日前に約束したから、変更や遅延などはできなくなって、元計画通りにやるしかない。私たちの車三台がオランダ村に入ったとき、スタンド三つや流動ポリスボックスひとつを通って、やっと楊斌の別荘に着いた。車を降りたとたん、数十名の警察が直ちに近づいてきた。友利銀行の副頭取李鐘輝の誤解を招かないように、それは中国政府が楊斌特別区長官を守るために手配した警察だといった。

沈陽鳳翔会社取締役の孫鳳翔(左)がオランダ村楊斌のロビーで楊斌と一緒にとった写真だ。2時間後、楊斌が沈陽の警察に連れていかれた。
「楊斌が別荘の正門で韓国のお客さんを中に案内した。振り返って、警察が近づいて別荘を厳密に囲んだのを見た。
私は楊斌に韓国SR会社、友利銀行のお客さん、友利銀行の副頭取李鐘輝、次長黄圭勝、科長鄭俊文、私自身それに許偉と通訳の安京浩を紹介した。席に着いたら会談が始まった。
韓国人が直接新義州で投資するのを朝鮮側が認められないので、この100の企業が友利銀行に彼らの代表としての商談を頼んだ。楊斌は新義州の地図、企画図や資料をみんなに見せて、港、空港、加工工場の位置を指した。韓国企業家や銀行は第一期総投資で新義州特別区に100億元を、うち20億を沈陽オランダ村始末工事や発展資金に投資すると約束した。ほかの資金投資は新義州空港、埠頭、石油加工工場に使うといった。友利銀行代表が100の企業を代表して、まず私の鳳翔会社と合資で投資会社を設立してから、この投資会社の名で楊斌と協力する形で、100億元の資金を新義州に入れるようにする。
12時過ぎで、私たちが体を起こして出ようとして、誰かがドアをあいたが、警察から任務のため、誰も別荘に出入りできないと言われた。仕方なく、私は友利銀行の李鐘輝副総裁にこういった。「多分オランダ村の土地開発で少々問題があるので、警察が任務を果たして、当分は誰も出入りできないことをご理解いただき、座って一休みしよう。」お客さんがもとの位置に座って、お茶を飲みながら話をした。楊斌が仕方がないので、先に失礼して二階に上がって休んだ。朝2時ごろ、このままではだめだとわかって、携帯で市の指導者にここの状況を簡単に説明した。市指導者が少し待とう、彼らが処理すると言ってくれた。朝3時ごろ、省、市公安所外事所の担当者が来て、状況を聞いて、韓国のお客さんや私たちのお供の人を放した。私たちがオランダ村をでて、韓国のお客を万豪ホテルまで送ったら、すでに朝4時になった。」
李鋼は陳弘が当時の状況を説明した時、こういった。「当時私は人数を数えたら、韓国のお客が出てから、楊斌会長の別荘に残ったのは17人だ。」
 陳弘が続けて説明した。
「彼らがまた「朝鮮外交官は誰だ」と聞いて、韓明哲さんが「僕だけど。」といって、警察が「行っていい。」といったが、韓さんが「ここに残る。」と答えた。それで、警察や外事所の人が離れた。そのことがすんだら2時になった。みんなおなかすいたから、楊斌が保安員にチャーハンやいため料理を作ってもらった。みんなが少し食べてから、それぞれ休んだ。一階は私たち欧亜会社の人で、楊斌と運転手さん、保安員が二階に上がって、王諾とほかの客さんは三階に上がった。
朝4時ごろ、省庁外事所所長が入ってきて、劉秘書を呼んでいった。4時半、運転手さんの沈良を呼び出して話をした。4時55分、ドアが開いて、30名あまりの警察が入って、三列になって、そのあと入ったのは省庁、市、局の担当者で、武装警察も数人いた。省庁の幹部が公認文書を持って、「尋問令」を発表した。それで、われたれ一階にいる人、周翔、楊斌の第四のおばさん、王恵東、李鋼などをロビーの隣の劉秘書オフィスに追い込んだ。警察の一人が数人連れて二階に上がった。私は彼らの後について、二回に上がった。彼らが楊斌の部屋に行って、楊斌を起こして、服を着てもらって「尋問令」を発表した。このとき、私が省庁、市、局の人でないと気づかれたので、追い出された。」

李鋼と陳弘が2002年10月4日朝5時ごろ楊斌が警察に連れいかれたときの目撃者だ。写真では、陳弘(左)と李鋼(右)がオランダ村で当時の状況を説明しているところだ。撮影 関山
ここまで言って、陳弘が先に笑い出した。多分お供の人と装って、それが小さいことではないと気づいたからではないか。
 陳弘は楊斌の軍事学校のクラスメートで、その後はチームで連指導員をやったことがあるので、いい度胸だ。
楊斌の第四のおばさんである楊鳳林は楊斌が連れいかれたことについてこういった。
「楊斌が警察に連れていかれたと見たら、急いで窓際に行って、カーテンを開いて当時の様子を見た。楊斌が正門を出て、すぐ数十名の警察に囲まれた。彼が階段を下りて、振り返ってみたら、警察とともに車に近づいて乗った。手錠ははめていない。」
李鋼が加えながら言った。
「楊斌が連れていかれた数分後、市局の人が韓さんを呼び出して、外で立ち話をした。多分事情説明じゃないかな。みんなも次々と別荘を離れた。そのとき、警察やパトロールが出て行った事に気づいた。市局の人が韓さんと話しをしていて、私たちを留める気はなかった。」
確かに王諾や彼の二人のみなと専門家が楊斌の別荘で仕事状況を報告していると覚えていて、出ていなかったので、「王諾は。」と聞いた。
「彼は夕べ三階で寝た。」と李鋼が言った。
それを聞いて、直ちに三階に上がった。部屋をひとつずつたたいて、やっと王諾を見つけた。彼が朝3時ごろ寝たので、下でのことは何も知らなかった。
楊斌が朝5時10分に警察に連れいかれて、「尋問」といって、ほかの人は無事だとかれに伝えた。彼が3,4時間しかねてないと知ったので、二人の港専門家を連れてもともとの別荘に帰した。
そのとき、王恵東が駆けつけた。朝6時30分に国内外の記者が集まって出発という予定で、彼はスポークスマンとして記者を招待している。「ニューヨークタイムズ」の範文欣が駆けつけてきた。彼はすでに楊斌が沈陽警察に連れいかれたと知って、王恵東に「どういうことだ。」と連発している。王恵東が絶えず外国記者に説明している。
そのとき、2日間前に来た陸班(執事)、徐寧(ボディーガード)がトランクを持って、あわてて楊斌の住所を離れたのをみた。彼らは誰にも言わずに離れた。
曾子墨が前の別荘から歩いて、小川でとまって、ぼうーと昨夜彼女が取材し、食事をし、話をした楊斌の別荘を見つめているのを見た。いまどき、そこはすでに空っぽになった。朝の風で彼女は髪が乱れたが、気にしていないようで、ただそこにたって黙々と見ている。この人がその「ウオール街で軽く、自信を持って、堅実な一歩一歩を踏み出して、一手にフィルターで、一手にさっき路上の喫茶店で買った熱いコーヒーで、世界ブランドGIORGIOAMINの高価なスーツやハイヒールを履いて、黒い髪をタブさにする女傑の中国ガール」か。(ネットで「特別ガール」を引用した。それは曾子墨の人物描写だ。)
曾子墨が言ってた。「北京の朝は楽しくて、好奇で、憧れに満ちている。ダートマスの朝はつらくて、孤独で、堅い。ニューヨークの朝は多彩で、ヒステリックで、情熱に満ちている。香港の朝は変化に富み、落ち着いて、自信を持っている。」そのときの曾子墨が何を考えているのかな。どんな言葉で沈陽オランダ村の朝を描写するんだろう。
曾子墨はその後、彼女の「墨跡-命や記憶の中に生きる」という本に、その日の朝についてこう書いた。
「楊斌が尋問を受けた当日、同僚と再びオランダ村に行った。大きいオランダ村で、いまどきは空っぽになった。警察がいなくなって、欧亜の職員もいない。大通りは誰一人もない。ただその巨大な風車が孤独で、風にそってゆるゆると揺れている。脳裏で突然こういう画面が浮かんできた。「楊斌がばくち場ですぐ数万の金を使っている。」…実は、楊斌の人生はまさにばくちではないか。オランダからポーランドまで、沈陽から朝鮮まで、ばくちなら、負けや勝ちはあるものだ。これらのことは彼はきっと誰よりも知っている。」
北方の秋のあさ、空が高く、雲が淡い。陽が出たけど、朝風はやはり肌寒い。私は外でオランダ村の西欧風の建物、オランダ風車、ガラス温室どころか。…再び楊斌の別荘のロビーに戻って、ソファーに腰掛けてタバコをすっている。何でここまできたかはわからない。頭の中で、昔のことを思いだして、いろいろなことや人を思い出して、破綻や問題の答えを探そうとした。
当日朝6時、韓国のテレビでは「新義州特別区長官楊斌が中国沈陽の警察に連れいかれた。」というニュースを流した。世界の主なテレビ局、新聞、サイトがともにこのことについて報道した。今度は多分韓国の銀行家、中国駐在の韓国領事館が記者に漏らしただろう。
8時に私たちは朝ごはんを食べた。在席の人は欧亜会社の李剛、石軍、朝鮮外交官韓明哲(それは数ヶ月以来の初めての同席だ。)、馬寧、王恵東、楊大勇と私などがいる。途中、韓明哲がこういった。「楊会長が警察に連れいかれたあと(5時15分)、6時ごろ金将軍がそのことをしった。金社長が新義州にいても知った。それは楊斌会長に対してのではなく、われわれにたいしてのだといった。」言い終わって、悲しそうに私たちを見つめている。私たちは何も言わなかった。
「公衆の視野に入ったときから、楊斌はなぞだ。身分のなぞから初めて儲けたお金のなぞ、それで特別区長官のなぞまで。楊斌は神話だ。オーファンから富豪になった神話、まずしい留学生から特別区長官になった神話だ。…なぞ解けは多分それほど大切ではない。重要なのはいったい誰がこのはかない神話を作ったんだろう。楊斌、それとも私たち。それとも私たちがともに生きてきた変化に富み、複雑な時代なのか。」⑥
曾子墨が以上のように言った。
10日、楊斌の第一のおばさんの楊鳳曲、第四のおばさんの楊鳳林が沈陽公安局に楊斌を見に行った。警察からは「楊斌が法律によって尋問を受けています。この間は誰も見に来ることはできません。家族や親戚が衣類や生活用品を届けることは許されます。」といわれたので、二人は持った楊斌の普段着や「スリーファイブ」タバコを残していった。
注釈:
① 楊斌の話は、9月19日ニュース発表会で私がメモした記録によるものだ。
② 10月6日、オランダ村海牙ホテルで、楊大勇弁護士らと一緒に朝鮮側のある官僚と食事をしながら話しをした。この朝鮮官僚は楊斌が国内外の記者に言ってた「9月30日から外国人はビザ免除で新義州に出入りできまる。」に言及したとき、「この責任はわれわれにあります。われわれの代表が楊斌会長にそのようなことを確かに言いました。が、中にいろんな問題が絡んでいて、隔離の塀もまだだから。…」といった。
③ 楊斌の新義州特別区準備委員会の始めての会議の話しは当時の私の記録によるものだ。
④ 新義州特別区準備委員会の始めての会議の経過は、9月29日私の当時の記録に夜ものだ。
⑤ 赤星義春さんと楊斌との付き合いは、筆者が二人の宴会や雑談に参加したほか、主に赤星義春の筆者への談話や手紙によるものだ。
⑥ 「墨跡-命や記憶の中に生きる」をご覧ください。作者:曾子墨。香港明報出版社2007年11月初版、第254ページにある。


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